で、あがってきた。
 狭い家中に、いっぱいに立ちはだかっている黒装束の連中などは、頭《てん》から眼中にないようす。
 まるで、お藤とチョビ安だけのところへ、のんきに訪ねて来たようなふうだ。
「どうした」
「おひさしぶりでしたねえ、左膳の殿様。手を突いて御挨拶をしたいんですけれど、ごらんのとおり、とっちめられていて、自由がききませんから、ホホホホホ……」
「おいっ、あまり世話をやかせるものではないぞ」
 その時まで黙っていた高大之進が、いきなり左膳へ向かって、こう口を開きました。
「多くはいわぬ。壺が大事か、子供の命が大事か――ソレッ」
 眼くばせをうけて、チョビ安をおさえている一人の手に、やにわに寒い光が立った。抜き身の斬っ尖を膝に敷きこんだチョビ安の喉元へ擬《ぎ》したのです。
 返答いかに?
 おとなしく壺を渡せばよし、さもなければ、血に餓えたこの刃が、グザとかわいい小さなチョビ安の咽喉《のど》首へ……。
 チョビ安は、しっかり眼をつぶって、身動きもしない。できない。
 左膳は、どっかとあぐらをかきました。
「まあ、話をしようじゃアねえか」
「えいっ、渡すか渡さぬか、それだけいえっ」
「あたいは死んでもいいから、壺をやらないでね」
 むじゃきなチョビ安の言葉に、左膳は、たった一つの眼をうるませて、
「おれがここで暴《あば》れだしゃア、その前《めえ》に、チョビ安の頸が血を噴くってわけか。コーッと、なるほどこいつア、手も足も出ねえゾ――」

       二

 実際こうなってみると、いかに刃妖丹下左膳でも、ほどこすすべはない。
 チョビ安の咽喉と白刃との間《あいだ》には、五|分《ぶ》、いや、三|分《ぶ》のすきもないので。
 左膳の返事一つで、その斬っ尖がチョビ安の首に突きささることは、眼に見えている。
 伊賀の連中も真剣だ。
 決しておどかしでないことは、その、チョビ安に刀を構えている侍の、黒覆面からのぞいている血走った眼の色でも、わかるんです。
 静寂……秋の夜更けは、身辺に黒い石を積みかさねるように、圧《お》しつけるがごとく感じられる。
 沈黙を破ったのは、この隊の頭目《とうもく》、高大之進でした。
「子供をたすけたいと思うなら、さ、それなる壺を拙者の前にさしだされい」
 左膳は、隻眼を笑わせて、凝然と天井を振りあおいでいる。
 チョビ安は無言……お藤も、今はもう言葉もなく、うなだれているばかり、はだけた襟の白さが、この場の爆発的な空気に、一|抹《まつ》の色を添えて。
「返答はどうしたっ! 返答はっ」
 もう、完全に左膳を隅へ追いつめたのですから、伊賀っぽう、めっぽう気が荒いんです。
 一人がそうどなった。
 その尾について、ほかのひとりが、
「夜が明けるぞ、夜が」
「下手《へた》の考え休むに似たり。ええ面倒だ。小僧の首をもらってしまえ」
 たちさわぐ部下を制した高大之進覆面の眼を、得意げに輝かせて、
「なかなか御決心がつかぬとみえますな。よろしい、拙者がいま、十まで数を数えますから、その間に御返事をねがいたい」
 と、チョビ安をおさえつけている侍へ向かい、
「よいか、おれが十まで数えても、うんともすんともいわなかったら、気の毒だが、その子供の首をひと刺しにナ……」
「心得ました。十のお声と同時にブツリ刺し通してもかまわないのですね」
「そうだ。十の声を聞いたら、やっちまえ」
 シインとした中で、やおら左膳に向きなおった高大之進は、きりっとした声で、数えはじめました。太く、低く、静かに……。
 一、二、三、四――五――。
 ゆっくり間《ま》をおいて、
「六……」
 誰かが、エヘン! と、咳ばらいをした。
「七――」
 左膳の焦慮《しょうりょ》は眼に見えてきた。娘《むすめ》一人に婿八人、各方面から、この壺をねらう者の多いなかに、片腕の孤剣を持って、よくここまでまもり通してきたものを、今むざむざ……。
 と、言って。
 ためらったが最後、かわいいチョビ安の命はないもの。
 右せんか、左せんか。左膳の額部《ひたい》に、苦悶の脂汗が――。
「八――九……」
「待った!」
 くるしい左膳の声だ。
「しかたがねえ。負けた」
 静かに、壺を畳へ置いて、高大之進のほうへ押しやりました。

       三

「ウム、神妙な――」
 微笑した大之進、それでも、めったに油断をみせません。片手に抜刀を構えたまま、じっと上眼づかいに、左膳をみつめて。
 ソロリ、ソロリ……片手で風呂敷をときにかかった。
 一座の眼は、その指先に集まっている。
 鬱金《うこん》の風呂敷が、パラリと落ちると、時代で黒ずんだ桐の木箱。
 大之進は、ピタとその蓋に手をおいて、
「おのおの方ッ、こけ猿の茶壺でござるぞ。われわれの手で取りもどしたは、真に痛快事。これで、気を負《お》い剣を帯して、江戸表まで出てまいった甲斐があったと申すもの」
 一人が、四角ばって、すわりなおした。
「殿の秘命をはたし得て、御同様、祝着至極《しゅうちゃくしごく》……」
「この問題も、これにて解決。殿のお喜びようが眼に見えるようでござるワ」
「さっそく、明朝江戸を発足いたし……」
 謹んで、壺の蓋をおさえていた高大之進は、その間も、左膳から眼をはなさずに、
「当方にとってこそ、絶大なる価値を有する壺、だが、其許《そこもと》には、なんの用もないはず。おだやかにお渡しくだすって、千万かたじけない」
 左膳、女物の派手《はで》な長襦袢《ながじゅばん》からのぞいている、痩せっこけた胡坐《あぐら》の毛脛を、ガリガリ掻いて、
「ウフフフ、あんまりおだやかでもなかったぜ。今になって礼を言われりゃア世話アねえや」
 チョビ安もゆるされて、ピョッコリ起きあがって、ちょこなんとすわっています。
 お藤も手を放されて、居住いをなおすなかに、つと声をあらためた高大之進、
「役目のおもて、大之進、お茶壺拝見」
 おごそかに言いながら、ピョイと蓋をはじいた。
 蓋は軽い桐材。四角い紙のように、ピョンと飛んで畳を打つ。
 のぞきこんだ大之進といっしょに部屋中の眼が箱の中へ――
 赤い絹紐であんだすがり[#「すがり」に傍点]の網に包まれて、柳生|名物《めいぶつ》の茶壺、耳こけ猿が、ピッタリとその神秘の口を閉ざし、黒く黙々とすわっている……のが、一瞬間、みなの眼に見えた。
 だが。
 錯覚《さっかく》。そうと思いこんだ眼に、一時それが実在のごとく閃めいただけで、恋しなつかしのこけ[#「こけ」に傍点]猿の茶壺! と、思いきや!
 鍋なんだ、中にはいっているのは。
 破《や》れ鍋《なべ》が一つ、箱の底にゴロッと転がっているんです。
 驚きも、声の出るのはまだいい。
 高大之進も、左膳も、室内の一同、まじまじと箱の中をのぞいた眼を、互いの顔へパチクリかわしているだけで、なんの言葉もありません。
 そうでしょう、大きな鍋が、鉄のつるを立てて、箱のなかにどっかと腰をすえているところは、真っ黒な醜男《ぶおとこ》が勝ちほこった皮肉の笑いを笑っているようで――。
「ウム!」
「フーム」
 左膳と大之進が、いっしょにためいきをついたとき、鍋に、一枚の紙片のはいっているのが眼についた。驚きのあまり敵も味方もなくなって、左膳が拾いあげてみると、達者な筆で、
「ありがたく頂戴《ちょうだい》」
 とある。

       四

 橋の下の小屋|住居《ずまい》に[#「小屋|住居《ずまい》に」は底本では「小屋住|居《ずまい》に」]、朝夕眼をはなしたことのない壺。
 それが、こうして中身が変わっていようとは!
 いつ、何者にぬすまれたのか、左膳にも、チョビ安にも、すこしの心当りもありません。
 左膳とチョビ安、四つの眼、いや三つの眼で見はっていた壺が、いつのまにやら鍋に化けて、しかも、ありがたく頂戴《ちょうだい》と嘲笑的《ちょうしょうてき》な一筆。
 丹下左膳不覚といえば、これほどの不覚はないが、がんらいが剣腕一方のかれ左膳、いかなる手品師の早業か、すきを狙われては、どうにも防ぎようがなかったらしく。
 こけ猿の茶壺は、とうの昔に左膳をはなれて、何者かの手に渡っていたのだ。
 では、どこへ行ったか。
「ウーム、わからねえ、どう考えてもふしぎだ……」
 一眼をとじ、沈痛にうめいている左膳を、チョビ安は唖然《あぜん》と見上げて、
「ねえ、父上。どうして盗まれたろう。あたい、いくら考えてもわからないよ」
 父上……と聞いて、壺よりも、久方《ひさかた》ぶりにめぐりあった左膳その人に、多大の関心を持っている櫛巻きお藤は、そそくさと膝できざみ出ながら、
「あらっ、丹下の殿様、これお前さんの子供なのかい。まあ! いつのまに、こんな大きな子供が!」
 その時まで、発音ということを忘れたように、ただ眼ばかりキョロつかせていた柳生の侍達、一度に大声にしゃべりだした。
「やられたっ! 見事この独眼竜《どくがんりゅう》に、一杯くわされたぞ」
「かつがれましたなア。鍋を抱えて逃げているとも知らず、懸命にここまで追いつめたが……」
「人をなべ[#「なべ」に傍点]やがって――」
 いやな洒落《しゃれ》です。
「かくまでわれわれを愚弄いたすとは! もう容赦はならぬっ」
 さけぶと同時に一人は、またチョビ安を押しころがして、その胸もとに斬っ尖《さき》を突きつけ、左膳へ向かい、
「さ! 壺の所在《ありか》を言えっ」
 蜂の巣をつついたような騒ぎのなかで、じっと眼をつぶっている丹下左膳は、甘い女の香が鼻をなでて……お藤が、そっと寄り添っていることを知った。
 すると、高大之進は、だまって、さっさと土間へおりてしまった。
「この仁《じん》の驚きは、われわれ以上だよ。盗まれたことを知らずにいたのだ。責めても、むだだ。さあ、ひきあげよう」
「しかし、謀《はか》られたとしたら……」
「いや、そうでない。何者かが壺を盗み出したことは、この仁の顔色を見てわかる。出なおし、出なおし」
 そう笑って高大之進は櫛巻きお藤へ、
「いや、騒がせたナ」
 ブラリと尺取り横町を出ていった。他の連中も、しかたなしに、左膳とお藤とチョビ安を、かわるがわるにらみつけておいて、ガヤガヤ立ち去って行く。
 急に、しんとしたなかに取り残された三人……鍋を前に、深い無言がつづいています。

   扇子《せんす》の虫《むし》


       一

 顔を見合わせて、吐息をつくばかりです。
 さア、こうなってみると、こけ猿の茶壺は、いまどこにあるのか、てんで見当もつかない。
 茶壺というと……今の人の考えでは、たかが茶を入れておく容器《いれもの》で、道具の一つにすぎませんが、昔は、この茶壺にたいする一般の考えが、非常にちがっていて、まず、諸道具の上席におかれるべきもの、ことに、大名の茶壺や、将軍家の献上茶壺となると、それはそれはたいへんに羽振りをきかせたもので、禄高に応じて、その人と同じ待遇を受けたものです。
 ことに、相阿弥《そうあみ》の蔵帳《くらちょう》、一名、名物帳《めいぶつちょう》にまでのっている柳生家の宝物こけ猿の茶壺。
 単に茶壺としても、それが紛失したとなると、これだけの大騒動《おおそうどう》が持ちあがるになんのふしぎもないわけだが――。
 そればかりではない。
 柳生の先祖が、他日の用にと、しこたま蓄財した現金をひそかにある地点へ埋めた、その秘宝《ひほう》の所在を書きとめた地図が、このこけ猿の茶壺のどこかに封じこんであるのですから、いま、この宝探しのような、大旋風がまきおこっているのも、理の当然です。
 左膳、チョビ安、お藤の三人は、無言の眼をかわして、考えこんでいましたが、そのうちに左膳、指を折って数えだした。
「一つ、壺を奪還せんとする柳生の連中――これは、司馬の道場へ乗りこんでおる源三郎一味と、捜索の手助けに伊賀から出て来た高大之進の一団と……今夜まいったのは、この高《こう》の一隊だが、彼奴《きゃつ》らは、道場と、林念寺前《りんねんじまえ》の柳生の上屋敷の間に連絡をとって、血みどろになって探しておる」
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