えない糸があるかのよう……まもなく二人は、十年の知己のごとく、肝胆相照らし、この、疑問のこけ猿の茶壺を中心に、いま、江戸の奥底に大いなる渦を捲き起こそうとしている事件について、夜のふけるまで語りあったが――
 いずくを家とも定めぬ泰軒、どこにいてもさしつかえない身分なので、この日から彼、乞われるままにこのとんがり長屋の作阿弥の家へ、ころげこむことになったのです。
 えらい居候《いそうろう》……とんがり長屋に、もう一つ名物がふえた。
 その夜、泰軒は、お美夜ちゃんの手をひいてニコニコ顔で、長屋じゅうの熊公、八公のもとへ、引越蕎麦《ひっこしそば》をくばってあるきました。

   子《こ》を取《と》ろ子取《こと》ろ


       一

 先《せん》の業《わざ》とは、相手が行動を起こそうとするその鼻に、一秒先立って、こっちからほどこす業《わざ》。
 後《ご》の先の業とは……?
 相手が動きに移ろうとし、または移りかけた時に、当方からほどこす業《わざ》で、先方の出頭《でがしら》を撃つ出会面《であいめん》、出小手《でこて》、押《おさ》え籠手《こて》、払《はら》い籠手《こて》。
 先《せん》々の先の業――とは。
 先の業のもう一つさきで、相手が業をしかけようとするところを、こっちが先を越して動こうとする、そのもう一つさきを、相手のほうから業をほどこす、これが先々の先の業。
 竹屋の渡しに、舟を呼ぶ声も聞こえない。真夜中近く、両側の家がピッタリ大戸をおろした、浅草材木町《あさくさざいもくちょう》の通りを、駒形のほうへと、追いつ追われつして行く黒影、五つ、六つ……七つ。
 近くの空まで、雨がきているらしい。闇黒《やみ》に、何やらシットリとしめった空気が流れている。鎬《しのぎ》から棟《むね》、目釘《めくぎ》へかけて、生温かい血でぬらぬらする大刀濡れ燕を、枯れ細った左手に構えた左膳は、
「くせの悪いこの濡れ燕の斬っ尖《さき》どこへとんでいくか知れねえから、てめえらたちっ、そのつもりでこいよっ」
 しゃがれた声で、ひくく叫んだ。
 髑髏《どくろ》の紋が、夜目にもハッキリ浮かんで、帯のゆるんだ裾前から、女物の派手な下着をだらりと見せた丹下左膳、足《そく》を割って、何かを踏まえているのは、これこそは、こけ猿の茶壺に相違ない風呂敷の木箱。
 そしてその足もとには、例のチョビ安がうずくまっているので。
 したい寄る影は、みな一様に黒の覆面に、黒装束。どこの何者ともわからないが、いっせいに剣輪をちぢめて、ヒタヒタヒタと進んでいく群れのなかに、
「よいかっ。一度にかかれっ! 壺はとにかく、小僧をおさえろ、小僧を!」
 との声がするのは、たしかに、この壺捜索のために伊賀から江戸入りしている、柳生の隊長高大之進だ。
 一気に壺を奪取しようと、月のない今宵を幸い、橋下の左膳の小屋へ斬り込みをかけたのだが、早くも二、三人にその濡れ燕を走らせた丹下左膳は、チョビ安に箱をだかせて、ともにこの材木町《ざいもくちょう》の通りを、いま、ここまで落ちのびて来たのだけれど。
 払っても、抗《むか》っても、すがりよってくる黒法師のむれに、二人はまさに、おいつめられた形で。
 左膳、こうして壺を大道の真ん中に置かせ、それをガッシと片あし掛けて、チョビ安を後ろにかばい、ここにしいた背水の陣だ。
 この機会を逃がしては……と!
 気負いたった伊賀勢、一人が駈けぬけて、真ッ向から左膳に激突するつもり!
 だが一人ふたりの相手よりも、大勢を向うにまわしてこそ、刃妖の刃妖たるところを発揮する丹下左膳。
 ニヤリと、笑った。
「安っ! 離れるなよっ」
 左足を一歩引いて空を打たせ、敵の崩れるところを踏みこんで、剣尖からおろす唐竹割り、剣法でいう抜き面の一手です――左膳の体勢は、すこしもゆるがず、つぎの瞬間、また水のごとき静けさに返っています。

       二

 江戸のこどもの遊びに、「子を取ろ子とろ」というのがあった。これは明治のころまでありました。子供が多勢、帯につかまって一列になり、鬼になった子が前へ出てその列の最後の子をつかまえようとする。
「子を取ろ子とろ」
 と、鬼になった子がさけぶ。
 すると、一列縦隊のこどもたちが、一番おしまいの子を守りながら、
「さあ、取ってみなさいな」
 と大声をあわせて、呼ばわるのだった。
 かなり古い遊戯で、当時は子供達の間に、非常に流行《はや》ったもの。仏教のほうからきた遊びだといいますが、なんでも地獄の獄卒が、こどもたちをつれて通りかかると、戒問樹《かいもんじゅ》という木の下に、地蔵菩薩が待っていて、お地蔵さんは子供の神様で情け深い方ですから、こどもたちのために哀れみを乞《こ》います。獄卒はこどもを渡すまいとする。お地蔵さんは取ろうとする。その、お地蔵様と獄卒との間に、取ろう取られまいとする争いがもちあがって、これが「子を取ろ子とろ」の遊戯になったのだという。
 とにかく……。
 この「子を取ろ子とろ」が、この深夜、材木町《ざいもくちょう》の通《とお》りに斬りむすぶ剣林のなかに、始まった。
「小僧をつかまえてしまえっ」
 高大之進は、大声にわめきながら疾駆して、
「壺はかまうな。子供をつかまえろっ」
 チョビ安をひっとらえて、即座の人質にしようというのだ。
 取ろうとする伊賀の一団が、お地蔵様か。
 渡すまいとする丹下左膳が、地獄の獄卒か――。
「安ッ! すきを見て逃げろヨッ!」
 左膳が、ちょっと後ろを振りむいて、チョビ安にささやいた……これが敵には、乗ずべきすきと見えたものか、かたわらの天水桶《てんすいおけ》のかげにひそんでいた黒影一つ、やにわに、刀とからだがひとつになって、飛びこんできた。
 左膳としては。
 足に踏まえているこけ猿の壺にも、気をくばらねばならぬし、うしろのチョビ安にも、心をとられる。
 左膳の濡れ燕を、頭上斜めにかざして、ガッシリと受けとめるが早いか、二本の剣は、さながら白蛇のようにもつれ絡んで……鍔競《つばぜ》り合いです。
 歯をかみしめた左膳の顔が、闇に大きく浮かびでる。
 鍔ぜり合いは、動《どう》の極致《きょくち》の静《せい》……こうなると、思いきり敵に押しをくれて、刀を返しざま、身を低めて右胴を斬りかえすか。
 または……。
 こっちが押せば向うも押し返す、この押し返して来たところを力を抜き、敵の手の伸びきったのに乗じて、やはり刀をかえして右胴を頂戴《ちょうだい》するか。
 二つに一つ。
 だが、鍔競りあいの胴《どう》打ちは、大して力のきかぬものとされているから、どう動くにしても、最大の冒険です。
 先にうごいたほうが、命をとられる。左膳も、その覆面の敵も、ギリッと鍔をかみあわせたまま、まるで二本の柱のように、突ったっている。とりまく一同も、柄を持つ手に汗を握って、声もありません。

       三

 真夜中の斬《き》りあいに驚いて、両側の商家の二階窓が、かすかに開き、黄色い灯の条《すじ》のなかに、いくつも顔が並んで見下ろしている。
 すると、ふしぎなことが起こったのです。
 左膳が、スーッと刀をおろしながら、その相手から二、三歩遠ざかった。
 それでも、その男は、刀を鍔ぜり合いの形に構えたまま、斬っ尖に天をさして、凝然と立っている。
 柱によりかかっていた人が、フワリとその柱をはなれる時のように、左膳は日常茶飯事《にちじょうさはんじ》の動作で、一間ほどその男から遠のいたのですが、黒い影は、まだガッキと腕に力をこめて、大地に根が生えたよう……。
 離れた左膳は、不意に、大切なこけ猿を相手の足もとへ置いてきたのに気がついた、またブラリと引き返して、刀を口にくわえ、それを左手に抱きあげてもとのところへ帰って……相手は作り物のように、まだ鍔競り合いの恰好のまま動かないんです。周囲の伊賀の連中は、このありさまに何事が起こったのかと、あっけにとられて眺めているばかり――。
 だが、さすが名剣手の高大之進だけは、心中に舌をまきました。
 その、刀をくわえて、ボンヤリ壺を取りにひっかえしている左膳のどこにも、一点のすきもないんです。ピンの先で突いたほども、気の破れというものがない。
 すると、ここにふたたびふしぎなことが起こったので。
 二、三間離れて、壺を左の腋《わき》の下にかかえこんだ丹下左膳が、その、まだ一人立っている黒い影へ向かって、ひだり手に刀を持ちなおし、
「やいっ、汝《われ》アもう死んでるんだぞ。手前《てめえ》の斬られたのを知らなけれア世話アねえや」
 さけんだかと思うと、その黒い影が大きく前後にゆらいで、まるで足をすくわれたように、バッタリ地に倒れました。同時に、右から左へかけてはすかいに胴がわれて、一時に土を染めて流れ出す血、臓腑《ぞうふ》……いつのまにか、ものの見事に斬られていたんです。
 もののはずみというものは、おそろしい。死んだまま立っていたまでのこと。剣の妙も、こうなるとものすごいかぎりで、斬られた本人が気がつかないくらいだから、あたりの者は、誰も知らないわけ。
 呆然としている柳生の侍達を、しりめにかけ、
「また出なおすとして、今夜はこれで、帰れ、帰れっ」
 あざけりを残した左膳、濡れ燕をさげた左の腋《わき》の下に、こけ猿をかかえて歩き出したが……。
 ハッとわれに返った高大之進をはじめ柳生の面々、こうなるとすきも機会もありはしない。一度に、渦巻きのように斬ってかかった。
 一本腕の左膳が、刀と壺を持つのだから、防ぐためには、また壺を地面におろさなければならない。チョビ安に持たせておくのは不安だから――で、左膳が、
「まだ来る気かっ、性懲《しょうこ》りもねえ」
 うめきざま、不自由な身で、刀を口に銜《くわ》えながら、左わきの下の壺を左手に持ちかえて足もとへおこうとした刹那《せつな》、ドッと襲いかかる足の下をくぐったチョビ安、逃げる気で、いきなり駈けだしたんです。
「そら、小僧を……」
 誰かがさけぶ声がした。一同は左膳を捨ててチョビ安を追いにかかったが、こま鼠《ねずみ》のようなチョビ安、白刃の下をでるが早いか、駒形の通りをまっすぐにとんで、ふいっと横町へきれこんだ。

       四

「馬鹿ア見やしたよ」
 藍微塵《あいみじん》の素袷《すあわせ》で……そのはだけたふところから、腹にまいたさらし木綿をのぞかせ、算盤《そろばん》絞りの白木綿の三尺から、スイと、煙草入れをぬきとった。
 つづみの与吉《よきち》はあぐらをかいている。
「それでさ、あるやつの小屋から、あるチョビ助のあとをつけてネ、その行った先を見とどけたと思ってくだせえ。目ざす品物が、チャンとそこへ納まったと見てとったから、一番|金《かね》になるほうへ、そっと売りこんでやったのさ。そこまでアいったが姐御、先方が、いきおいこんで踏みこんでみるてえと、外見《そとみ》はそのねらっていた品物でも、中は石ころじゃアねえか。あっしは、呼びつけられの、どなられの、庭先へ引きすえておいて、すんでのことで斬るてえところを、泣いてたのんでゆるしてもらったんだが、あっしも、こんどてえこんどだけは、面目玉《めんぼくだま》を踏みつぶしやしたよ」
 司馬の道場から、与吉の報告にこおどりして、あのとんがり長屋の作爺さんのところへでかけていった峰丹波の一味、石をのぞいて帰っただけじゃア、どうにも腹の虫が納まらないから、与吉をブッタ斬ると息まいたのも当然で、思い出しただけで、与吉は身ぶるいをしています。
 市松格子《いちまつこうし》の半纏《はんてん》を、だらしなく羽織った櫛巻きお藤の顔へ、与吉のふかす煙草の煙が、フンワリからむ。
 駒形をちょっとはいった、尺取り横町は櫛巻きお藤の隠れ家だ。
 ふふんと笑ったお藤、だまって与吉から煙管《きせる》をとって、一服ふうとふきながら、
「三|下《した》が、言うことがいいや。面目玉《めんぼくだま》をふみつぶしたって、お前なんざ、はじめっから、ふみつぶす面目玉がありゃアしないじゃないか。手を合わせて命乞いしたところ
前へ 次へ
全55ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング