語をきったお蓮様は、すぐ、炎のような熱い息とともに、
「でも、それには、たった一つの条件がありますの」
「条件――?」
 と、向きなおった源三郎へ、お蓮様は、顔一杯の微笑を見せて、
「お婿さまはお婿様でも、そのお婿様の相手を変えるのが、条件……」

       六

 灯のほのかな長|廊下《ろうか》のまがり角だ。
 立ち話をしている源三郎と、お蓮様の影が、反対側の壁に大きく揺れている。
 源三郎は、両手をふところにおさめてそりかえるような含み笑いをしながら、
「ハテ、婿の相手が変わるとは?」
「萩乃からあたしへ」
 言いつつお蓮様は、つと手を伸ばして、源三郎の襟元へ取りすがろうとするのを、一歩|退《さが》ってよけた源三郎、
「ジョ、ジョ、冗談じゃアねえ」
 ほんとにあわてたんだ。
「母上としたことが、なんと情けないことを。老先生のお墓の土が、まだかわきもせぬうちに、娘御の婿となっております拙者に、さようなけがらわしいことをおっしゃるなどとは、プッ! 見下げ果てた……」
 源三郎、懐中の右手がおどり出て、左の腰際へ走ったのは、いつものくせで、刀の柄《つか》に、手をかける心。
 無刀《むとう》なのを、瞬間忘れたほどの怒りでした。
「先生にかわって御成敗いたすところだが、まずまず堪忍……丹波とはちがい、さような手に乗る源三郎ではござらぬ」
 お蓮様は、壁にはりついて、あっけにとられた顔で、源三郎をみつめている。
 それは、言い知れない驚愕の表情であった。この自分の媚《こ》びを手もなくしりぞける男が、この世に一人でもあることを発見したおどろき。
 自信をきずつけられた憤りに、お蓮様は、総身《そうみ》をふるわせて、
「よろしい。よくも私に、恥をかかせてくれましたね。それならば今までどおり、どこまでも戦い抜きましょう。お前《まえ》はあくまでも萩乃の婿のつもり……だが、こちらでは、無態な田舎侍が、なんのゆかりもないのに押しこんで、動かぬものと見ますぞ。また根較べのやり直し――それもおもしろかろう、ホホホホホおぼえておいで」
 きっと言いきったお蓮様が、源三郎をのこして、足ばやに立ち去ろうとした時、
「源三郎様っ!」
 と泣き声とともにそこの角から転《まろ》び出たのは、裾ふみ乱した萩乃だ。
 聞いていたんです、廊下のまがり角に身をひそめて。
 侍女のさがるのを待って、源三郎恋しさのあまり、会ってどうしようという考えもなく、ふらふらと居間を立ち出でた萩乃が夢遊病者《むゆうびょうしゃ》のようにこの廊下にさしかかると、壁にもつれる人影――何心なくたちどまった耳に、今までの二人の話が、すっかり聞こえてしまったので。
「どうぞ、源三郎さま、お母様のおっしゃるとおりになすって……あたくしは、どこへでもまいります。もう、もう、一人で――」
 泣きたおれようとする萩乃を、源三郎は、片手にガッシと抱きとめて、
「いかがなものでござる、母上。似合いの夫婦《めおと》で……ははははは」
 ニヤッと、はじめて、魔のようなほほえみ。
 振り返ったお蓮様は、トンと一つ、踊りのような足踏みをして、
「うるさいねえ、ほんとに。かってにするがいい」
 だが、その眼はキッと萩乃をにらんで、おそろしい嫉妬に、火のよう……。

   開《あ》けてくやしき


       一

「お手入れか。作爺さんが何をしたというんだ」
「あれはお前、ああ見えたって、押しこみ、詐《かた》り、土蔵《むすめ》破りのたいした仕事師なんだとよ」
 作爺さん、えらいことになってしまった――。
「なにを言やアがる。あの作爺さんにかぎって、そんなことのあるはずのもんじゃあねえ。でえいち乗りこんで来ている侍達《さんぴんたち》が、おれの眼じゃあ、八町堀じゃあねえとにらんだ」
「それにしても、まっぴるま長屋へ押しこんで来て、ああやって爺さんを脅かしつけているからにゃア、お役筋の絡んでいる者に相違ねえ」
「いや、待て。わからねえぞ。なんだか知らねえが、預《あず》かっている物を出せとか言って、大声をあげているぜ」
 とんがり長屋の入口は、わいわいいう人|集《だか》り……。
 残ったにしては根強い暑さかな――洒落《しゃれ》たことを言ったもので、まったく、江戸の残暑ときちゃア、読んで字のごとく残った暑さにしては、根が深い。
 いつまでも、つづく、
 今日も朝から、赭銅色《しゃくどういろ》の太陽がカッと照りつけて、人の心を吸いこみそうな青空――。
 街には、一面に土陽炎《つちかげろう》がもえて、さなきだにごみごみしたとんがり長屋のあたりは、脂汗のにじむ暑さです。
 その汗を、額いっぱいに浮きださせて、
「いやいや、その方の宅に、こけ猿の茶壺をかくしてあることを、突きとめてまいったのじゃ」
 わめきたっている侍がある。
 長屋の真ん中、作爺さんの住居です。
 さっきからこのさわぎなので、長屋は、奥の紙屑拾いのおかみさんが双生児《ふたご》を産んだ時以来の大騒動。でも、みんなこわいものだから、遠く長屋の入口にかたまって、中へはいってこない。
 一|間《ま》っきり作爺さんの家に、あがりこんでどなっている武士は、四人――どこの家中か、浪人か、服装を見ただけではわかりません。
 昼間だけに、さすがに覆面はしていないが、身もとをつつんできていることは必定。
 狭いところに大の男が、四人も立ちはだかっているのだから、身動きもならない。
 お美夜ちゃんはすっかりおびえて隅の壁にはりついたような恰好。円《つぶ》らな眼を恐怖に見開いて、どうなることかと、侍たちを見上げています……。
 作爺さんは、すこしもあわてない。
 押入れの前にぴったりすわって、
「へい、ある筋《すじ》より頼まれまして、風呂敷に包んだ木箱を一つ、預《あず》かっておりますが、何がはいっておるかは、この爺いはすこしも存じませんので」
「うむ、それじゃ。その箱を出せと申しておるのに」
「いや、手前はあけて見たわけではござりませぬが、こう、手に持ちまして手|応《ごた》えが、どうも、おたずねの茶壺などとは思えませぬので」
「だまれ。だまれ、汝《なんじ》のところに、こけ猿の茶壺のまいっておることは、かの、チョビ安とやら申す小僧のあとをつけた者があって、たしかに木箱を持ってここへはいるところを見届けたのだ。当方には、ちゃんとわかっておるのだぞ」

       二

 あの日、左膳のもとから壺を運んで来たチョビ安を、ここまで尾行《びこう》して来た者があったと見えて――。
 そいつは、言わずと知れた、れいのつづみの与吉にきまっているのだがサテ、その与の公の知らせをうけて、こうしてきょう乗りこんで来たこの四人は?
 林念寺前《りんねんじまえ》の柳生の上屋敷に陣取っている、高大之進一派の者か?
 それとも、源三郎とともに本郷の道場にいすわっている、同じ柳生の、安積玄心斎の手の内か?
 あるいは……。
 その道場の陰謀組、峰丹波の腹心か。
 ことによると――愚楽老人が八代公との相談から、そっと大岡様へ耳こすりした、その方面から来た侍か……?
 こうなると、さっぱりわかりません。
 だいたい、あのつづみの与吉なる兄《にい》さんは、あっちへべったり、こっちへベッタリ、その場その場の風向きで、得になるほうにつくのだから、はたして誰がこの与吉の報告を買いこんで、壺の木箱がここにきていることを知り出したのか、そいつはちょっと見当がつかない。
 今や、四方八方から、壺をうかがっているありさま。
 まだ、このほかに、巷の豪、蒲生泰軒先生まで、これは何かしら自分一人の考えから、ああして壺をつけまわしているらしい。
 年長《としかさ》らしい赭《あか》ら顔の侍が、とうとうしびれをきらして、さけびをあげました。
「親爺《おやじ》! どけイ! その押入れをさがさせろっ」
「いや、お言葉ではござりますが、手前も、引き受けてお預《あず》かりしたものを、そう安々と――」
「何をぬかす。いたい目を見ぬうちに、おとなしくわきへ寄ったがよいぞ」
「しかし、私はあくまでも、内容《なかみ》は壺ではねえと存じますので」
「まあ、よい。壺でなくて、何がはいっておる? うん? 開けて見れば、わかることだ」
「お侍様、りっぱな旦那方が、四人もおそろいになって、もし箱の中身が壺でございません時には、いったいどう遊ばすおつもりで――?」
「うむ、それはおもしろい。賭けをしようというのじゃな。さようさ、その箱に壺がはいっておらん場合には……」
 と、ひとりが他の三人の顔を見ますと、三人は一時にうなずいて、
「そのときは、やむを得ん。拙者らの身分を明かすといたそう。親爺、それでどうじゃ、不服か」
「なるほど。あなた方のおみこみがはずれたら、御身分をおあかしくださるか。いや、結構でござります」
「待て、待て。そこで、もし壺がはいっておった場合には、貴様、いかがいたす」
「この白髪首を……と、申し上げたいところでござりますが、こんな首に御用はござりますまい。なんなりと――」
「よし、それなる娘を申し受けるといたそう。子供のことじゃ、連れていってどうしようとは言わぬ。屋敷にでも召し使うが、そのかわり、おやじ、生涯会われぬぞ」
「ようがす」
 と、うなずいた作爺さん、さっと押入れをあけて鬱金《うこん》の風呂敷に包んだ例の茶壺の木箱をとりだし、四人の前におきました。
「さ! お開けなすって」

       三

 四人のうちのひとり、小膝を突いて、袖をたくしあげた。
「世話をやかせた壺だ……」
「これさえ手に入れれば、こっちの勝ちだテ」
 他の三人をはじめ、作爺さんの手が、ふろしきの結び目をとく手に、集中した。
 お美夜ちゃんも、隅のほうから、伸びあがって見ている。
 家の中が静かになったので、長屋の連中も一人ふたり、路地をはいって来て、おっかなビックリの顔が戸口にのぞいています。
 バラリ、ふろしきがほどける。現われたのは、黒ずんだ桐の木箱で、十字に真田紐《さなだひも》がかかっている。
 その紐をとき、ふたをとる――中にもう一つ、布《きれ》をかぶっているその布をのぞくと、
「ヤヤッ! こ、これはなんだ……!」
 四人はいっしょに、驚愕のさけびをあげた。
 石だ!――手ごろの大きさの石、左膳の小屋のそばにころがっていた、河原の石なんです。
 ウウム! と唸った四人、眼をこすって、その石をみつめました。
 しかも。
 水で洗われて円くなっている石の表面に、墨痕あざやかに、字が書いてある――。
 虚々実々《きょきょじつじつ》……と、大きく読める。
 下に、小さく、いずれをまことと白真弓……とあるんです。
 あの丹下左膳が、チョビ安にこの壺を持たして、ここ作爺さんのもとへ預《あず》けによこした時、左膳も相当《そうとう》なもので、どこからか同じような箱と風呂敷を見つけてきて、それは橋下の自分の小屋へ置くことにしたと言いましたが、さては、かんじんのこけ猿の茶壺は、そっちの箱に入っていて、いまだに左膳の掘立て小屋にあるとみえる。
 囮《おとり》につかわれたチョビ安――さてこそ、人眼につきやすい、あのおとなびた武士の扮装で、真っ昼間、壺の箱を抱えて小屋を出たわけ。
 じぶんの小屋から、壺の箱らしいものが出れば、必ず、なに者かがあとをつけるに相違ないと、左膳はにらんでいた。
 まさに、そのとおり……おまけに、こどものくせに、いっぱしの侍の風《ふう》をした異装だから、まるでチンドン屋みたいなもので、あの日あのチョビ安が、与吉にとって絶好の尾行の的となったのは、当然で。
 それがまた、左膳のねらいどころ。
 開けてくやしき玉手箱――この四人のびっくりぎょうてんも、左膳のおもわくどおりであります。
 石のおもてに、左膳が左腕をふるって認めた文字……虚々実々、いずれをまことと白真弓――この揶揄《やゆ》と皮肉と、挑戦をこめた冷い字を、ジッと見つめていた四人は、いっせいに顔をあげて、
「やられたナ、見事に」
「ウム。すると、壺はまだ、例の乞食小屋に――」
「むろん、ある
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