も、だまって見て、笑っていらっしゃる。
その、拝領のお羽織の袖をまくった愚楽老人……柳生はだいぶ弱っておるかの?
というお問いに答えるまえに、パチン、パチンと、ふたつ三つ将軍のお爪をきりましたが、ややあって、
「埋めある黄金をとりまいて、執念三つ巴《どもえ》、いや、四つ、五つ巴を描きそうな形勢にござりまする、はい」
と、左の足の小指へ鋏を移しながら、言上した。
名所《めいしょ》松《まつ》の廊下《ろうか》
一
「ふうむ」
と、八代様は、両手を縁につき、おみ足を愚楽老人の手に預けたまま、
「柳生の財産をめぐって、騒ぎをいたしおると?――じゃが、愚楽、その黄金が埋め隠してあるというのは、たしかな事実であろうな?」
愚楽老人は、またしばらく沈黙です。
すんだ鋏の音が、ほがらかな朝の空気に伝わって、銀の波紋のように、さわやかにちってゆく……。
「へい、事実も事実、上様が八代将軍様で、わっしが垢すり旗下じゃというくらいの紛れもない事実にござります。じゃがな、このことを知っているのは、柳生の大年寄、一風てえお茶師と、あっしぐらいのもんで、へえ。それも、そういう金が、柳生家初代の手で、どこかの山中に埋めてあるということだけは聞いておりますものの、所在は、誰も知りません」
「誰も知らんものを、どうして掘り出す?」
「それがその、こけ猿の茶壺と申す天下の名器に、埋蔵場所を記して封じこんでありますんで。ただいまその壺をとりまいて、渦乱が起こりそうなあんばい……」
吉宗公の眼に、興味の灯が、ぽつりとともりました。
「柳生の金なら、柳生のものじゃのに、何者がそれを横からねらいおるのか。余も、その争奪《そうだつ》に加わろうかな、あははははは」
大声に笑った八代様は、半分冗談のような、はんぶん本気のような口調だ。
まじめ顔の愚楽老人は、
「柳生は必死でござります。本郷の司馬道場に、居坐り婿となっております弟源三郎を、江戸まで送ってまいりました連中――これは、安積玄心斎《あさかげんしんさい》なるものを頭《かしら》としておりますが、そこへまた、国もとからも、一団の応援隊が入府《にゅうふ》いたしまして、目下江戸の町々に潜行いたしておる柳生の暴れ者は、おびただしい数でござります。それらがみな力を合わせて、いま申したこけ猿の壺をつけまわしておりますが……かんじんの壺はどこにありますのか、とんと行方が知れませぬ由――」
愚楽の地獄耳といって、巷の出来事は、煙草屋の看板娘の情事《いろごと》から、横町の犬の喧嘩まで、そっくりこの愚楽老人へつつぬけなのだから、この、こけ猿の騒ぎにこんなに通じているのも、なんのふしぎもないけれども、まだ丹下左膳なる怪物のことは、さすがの愚楽老人も知らないようす。
「ほかに、どういう筋から壺をねらっておるのかな?」
「本郷の道場の峰丹波、および、お蓮と申す若後家の一派と――それよりも、何者かこの壺をにぎって、離さぬものがありますので……日光御造営の日は刻々近づいてまいりますし、伊賀の奴ばらは気が気でないらしく、これは大きな騒ぎになって、お膝もとを乱さねばよいがと――」
「その金がのうては、伊賀も日光にさしつかえて、柳生藩そのものが自滅しても追いつかぬであろう。名家のあとを絶やすのは、余の本意ではない」
お縁の天井《てんじょう》を仰いで、長大息した吉宗のことばに、愚楽老人は、わが意を得たりといったふうに、にやりと微笑し、
「すると、私の手において別働隊を組織し、柳生に加勢して、壺を奪還いたしますかな?」
二
爪は切り終わっていました。
八代様は、静かに立って居間《いま》へはいりながら、
「しかし、柳生のために壺を取ってやるもよいが、日光じゃとて、それほどの大金は必要あるまい。貧藩を急に富まして、その莫大な金を蔵せしめておくは、これまた不穏の因《もと》であろう」
そそくさと羽織を引きずって二、三歩、後を慕った愚楽、ふたたびそこへ平伏するとともに、
「さあ、そこでござりまする。こちらへ壺を入手し、その壺中の書き物によって、埋宝をさがしだし、日光御修営に必要なだけを柳生に下げ戻しまして、あとはお城のお金蔵《かねぐら》へ納めましたならば、八方よきように鎮《しず》まりますことと存じますが」
下を向いて言う愚楽の声……これは、隠密などが使った一種の含み声で、口の中で小声を発するのだけれども、奇妙に一直線に走って、数間離れた相手にまで、はっきり聞こえる。そして、それ以上遠いところや、部屋の外へなどは、絶対に洩れることのないという、独特の発音法です。
吉宗は、もうその話は倦《あ》きたといったように、
「名案じゃ、よきにはからえ」
つぶやくようにいったきり、だまりこんでしまった。
お納戸役が御膳部《おたて》へ、朝飯のお風味に出かけていったのち、毒味がすんで、お膳を受け取ってお次の間まで運んでまいります。二、三人のお子供小姓やお坊主が、それを引きついで、将軍の御前へすすめる。
入れちがいに、一礼して立ちあがった愚楽老人は、人形がお風呂敷をかぶったような恰好で、御拝領羽織をだぶだぶさせながら、大奥から、お鈴《すず》の間《ま》のお畳廊下へ出ていきました。
なんとも珍妙な風態だけれど、いつものことだから、行き交《か》う奥《おく》女中、茶坊主、お傍御用の侍たちも、さわらぬ神に祟《たた》りなしと、知らん顔。
「ソレ、お羽織が通る……」
というんで、誰もこの愚楽老人のことを、まともに呼ぶ者はなかった。城外では、垢すり旗本、殿中では、この、お羽織お羽織で通ったものです。
眼引き、袖引き、ひそかに笑う者があったりすると、愚楽老人、
「御紋が見えぬか」
と、背中のこぶを突き出して、きめつけていく。
真青なお畳廊下。金の釘隠しがにぶく光って、杉の一枚戸に松を描いたのが、ズラリと並んでいる。これが有名な松の廊下……元禄《げんろく》の浅野《あさの》事件の現場です。
お羽織がそこまでさがってきたとき、お坊主を案内に立てて、向うの角からまがってきた裃《かみしも》姿のりっぱな武士……象《ぞう》のような柔和な眼、下《しも》ぶくれの豊かな頬には、世の中と人間に対する深い理解と、経験の皺《しわ》が刻まれ、鬚《びん》にすこし白いものがまじって、小肥りのにがみばしったさむらい。
愚楽老人とその侍が、ちょっと目礼をかわして、すれちがおうとしたとたん、不意に立ちどまった愚楽、
「や! これは奇怪な! なんでこのお羽織を踏まれた。いやさ、なんの遺恨ばしござって、このお羽織の裾を踏まれたか。それを聞こう、うけたまわろう!」
と、やにわに、くってかかりました。
三
越前守と、官を賜《たまわ》っていても、多く、旗本などがお役付きになるのですから、殿中における町奉行の位置なんてものは、低いものだった。
今……南町奉行大岡越前守忠相、踏みもしない羽織の裾を踏んだと、愚楽老人に言いがかりをつけられて、そのふくよかな顔に困《こん》じはてた色を見せ、
「いや、これはとんでもない粗相を――平に御容赦にあずかりたい」
弁解はいたしません。踏みもしないのに、しきりにあやまっている。
上様以外、お城に怖いもののない愚楽老人は、ますます亀背の肩をいからせて、つめよりながら、
「そういえば、貴殿は大岡殿であったな。不浄役人に、この羽織をけがされたとあっては、愚楽、めったに引きさがるわけにはゆき申さぬ」
かさにかかっての無理難題……忠相を案内して来たお坊主は、かかりあいになるのを恐れて、おろおろして逃げてしまう。
愚楽の声が高いから、人々は何事かと、眼をそばだてていくのです。
松のお廊下は、千代田城中での主要な交通路の一つ。
書類をかかえて、足ばやに通りすぎるのは、御書院番の若侍。
文箱《ふばこ》をささげ、擦《す》り足を早めて来るのは、奥と表の連絡係、お納戸役付きの御用人でしょう。退出する裃《かみしも》と、出仕の裃とが、肩をかわして挨拶してすぎる。
いわば、まあ、交通整理があってもいいくらいの、人通りのお廊下だ。
その真中で、南のお奉行大岡様をつかまえて、愚楽老人が、かれ独特のたんかをきっているんですから、たちまち衆目の的になって、
「またお羽織が、横車を押しているぞ」
「ぶらさがられておるのは、大岡殿じゃ。早くあやまってしまえばよいのに」
それは、言うまでもないので、大岡越前、さっきからこんなに、口をすっぱくして詫びているんですが、愚楽老人、いっかな退《ひ》かない、
「この年寄りは胸をさするにしても、お羽織がうんと承知せぬわい」
無礼御免の大声をあげた愚楽は、
「こっちへござれ! 篤《とく》と言い訳を聞こう」
そう、もう一つ聞こえよがしにどなっておいて、ぐいと大岡様の袖を掴むなり、そばの小部屋へはいっていく。
大岡越前守忠相は、泰然たる顔つきです。愚楽老人に袖をとられたまま、眉一つ動かさずに、その控えのお座敷へついて行きましたが……ピシャリ、境の襖をたてきった愚楽、にわかに別人のごとき声をひそめ、
「ただいまは、とんだ御無礼を――ま、ああでもいたさねば、尊公と自然に、この密談に入るわけにはまいりませなんだので」
大岡様は、事務的です。
「いや、それはわかっております。して、このたびの御用というのは、どういう……?」
「例の壺の一件ですがナ」
と、愚楽老人、神屏風を作って伸びあがるとともに、御奉行の耳へ、何事かささやきはじめた。
うるさいねえ
一
「いかがいたしたものでござりましょう」
というのは、峰丹波がこのごろ、日に何度となく口にしている言葉なので……。
いまも、そう呟いたかれ丹波は、月光にほの白く浮かんでいるお蓮様の横顔を、じっとみつめて、
「不意をおそって斬るにしても、かの源三郎めに刃の立つ者は、当道場には一人も――」
「うるさいねえ」
と、お蓮は、ふっと月に顔をそむけて、吐き出すように、
「ほんとに、業《ごう》が煮えるったら、ありゃアしない。弱虫ばっかりそろっていて――」
丹波の苦笑の顔を、月に浮かれる夜烏の啼き声が、かすめる。
「当方が弱いのではござりませぬ。先方が強いので」
「同じこっちゃあないか、ばかばかしい。あの葬式の日に、不知火銭を拾って乗りこんで来て、名乗りをあげた時だって、お前達はみんな、ぽかんと感心したように、眺めていただけで、手も足も出なかったじゃないか。ほんとに、いまいましったら!」
お蓮様の舌打ちに、合の手のように、草の葉を打つ露の音が、ポタリと……。
それほど閑寂《しずか》。
妻恋坂の道場の庭――その庭を行きつくした築山のかげに、小暗い木の下闇をえらんで、いま立ち話にふけっているのは、源三郎排斥の若い御後室お蓮様と、その相談役、師範代峰丹波の両人。
あれから源三郎、ドッカとこの道場に腰をすえて、動かないんです。
と言っても、もう萩乃と夫婦になったわけではない。ただ、一番いい奥座敷を、三間ほど占領して、源三郎はその一室に起居し、安積玄心斎、谷大八等の先生方は、源三郎を取りまいてその一廓に、勝手な暮しをしているのだ。
同じ屋敷にいながら、司馬道場の人々とは、顔が合っても話もせず、朝晩の挨拶もかわさないありさま……一つの屋敷内に、二つの生活。
持久戦にはいったわけだ。
どっちかが出るか、押し出されるか――。
こいつはよっぽど変わった光景で、お蓮様、峰丹波の一派は、源三郎を婿ともなんとも認めないばかりか、路傍の人間がかってにおしこんできたものと見ているので、われ関せず焉《えん》と、どんどん稽古もすれば、先生亡きあとの家事の始末をつけている。
伊賀の暴れん坊の一団は。
見事な廊下で、男の手だけで煮炊《にた》きをするやら、洗濯をして松の木にほすやら……当家の主人は、こっち側とばかり、梃子《てこ》でも動かぬ気組み。
「どうにかせねばなりませぬ。いかがいたしたものでござりましょう」
これが毎日続
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