そのよろこびを諸人に分かつ意味で。
 こんどのような悲しみには――死者《ほとけ》の冥福を人々に祈ってもらうため、また、生前の罪ほろぼしのこころで。
 銭を撒く――通りを埋める群衆の頭上へ。
 吉と呼ばれた男を取りまいて、さっきの職人らしい一団が、しきりにしゃべるのを聞けば、
「それに、まだ一ついいことがあるんだぜ」
「銭をくれたうえにか」
「おう。その銭の包みにヨ。たった一つ、御当家のお嬢さんが御自身で筆を取って、お捻りのうえに『御礼』と書いたやつがあるんだ。よろこびごとなら朱の紅筆で、きょうみてえな凶事《きょうじ》にゃあ墨でナ――その包みを拾った者はお前《めえ》……」

       二

 その、幾つとなく撒く中に、ただ一つ、御礼とお嬢さんの筆あとのあるお捻り……お墨つきの不知火銭を拾ったものは。
 ただひとり、邸内へ許されるという――門外にむらがる群衆の代表格として。
 そして。
 お祝いごとなら何人《なんぴと》をさしおいても、酒宴の最上座につらなり、お嬢さま萩乃のお酌を受ける。
 きょうのようなおとむらいなら。
 たといその包みを拾ったものが、乞食でも、かったい坊《ぼう》でも、喪主《もしゅ》のつぎ、会葬者の第一番に焼香する資格があるのだ。
「うめえ話じゃアねえか」
 と、吉をとりまく職人たちは、ワイワイひしめいて、
「妻恋小町の萩乃さまにじきじきおめどおりをゆるされるばかりじゃアねえ。次第によっちゃア、おことばの一つもかけてくださろうってんだ……まあ、吉《きっ》つあんじゃないか、会いたかった、見たかった。わちきゃおまはんに拾わせようと思って――」
「よせやい! 薄っ気味のわりい声を出すねえッ。チョンチョン格子の彼女じゃアあるめえし、剣術大名のお姫さまが、わちきゃ、おまはんに、なんて、そんなこというもんか。妾《わらわ》は、と来《く》らあ。近う近う……ってなもんだ。どうでえ!」
「笑わかしやがらア。おらあ、お姫さまのお墨つきの包みをいただいただけで、満足だ、ウフッ」
 なんかと、若いやつらは、儚《はかな》い期待に胸をときめかしております。
 群衆は刻々、増す一方――妻恋坂は、ずっと上からはるか下まで、見わたす限り人の海で、横町へはみ出した連中は、なんとかして本流へ割りこもうと、そこでもここでも、押すな押すなの騒ぎを演じている。
「やいッ、押すなってえのに!」
 振り返ると、うしろが深編笠の浪人で、
「身どもが押しておるのではない。ずっと向うから、何人も通して押してまいるのだ」
 こりゃあ理屈だ。怖い相手だから、
「へえ。なんとも相すみません」
 威張ったほうが、あやまっている。
 中には、纏《まと》い持ちが火事の屋根へ上がるように、身体じゅうに水をふりかけてやってきて、
「アイ、御免よ、ごめんよ。濡れても知らないよ」
 とばかり、群衆を動揺させて、都合のいい場所へおさまるという、頭のいいやつもある。
「押さないでくださいっ! 赤んぼが潰れますっ!」
 と子供をさしあげたおかみさんの悲鳴――。
「餓鬼なんざ、また生めあいいじゃアねえか。資本《もと》はかからねえんだ。なんならおいらが頼まれてもいいや」
 江戸の群衆は乱暴です。
「もう一度腹へけえしちめえっ!」
 カンガルーとまちがえてる。若い町娘にはさまれた男は、
「なに、かまいません。いくらでも押してくだせえ」
 と、幸福なサンドイッチという顔。

       三

 ハリウッドの女優さんなんかは、署名《サイン》係というのを何人か雇っていて、ブロマイドにサインをしてファンへ送っているそうですが萩乃のは、稀《たま》のことだから、自分で書くのだ。もっとも、名前じゃあない。なまめかしい筆で、御礼と……。
 なにか道場によろこびでもあって、この紅ふでの包みを拾おうものなら、天下一の果報者《かほうもの》というわけ。
 いま群衆のなかに。
 肩肘はった浪人者や、色の生っ白《ちろ》い若侍のすがたが、チラホラするのは、みんなこの、たった一つの萩乃直筆のおひねりを手に入れようという連中なので。
 音に聞く司馬道場の娘御に接近する機会をつくり、あとはこの拙者の男っぷりと、剣のうで前とであわよくば入り婿に……たいへんなうぬぼれだ。
 世は泰平。
 男の出世の途は、すっかりふさがってしまっている。
 腕のあるやつは、脾肉《ひにく》の嘆に堪えないし、腕もなんにもない当世武士は、ちょいとした男前だけを頼りに、おんなに見染められて世に出ようというこころがけ――みんなが萩乃を狙っているので。
 現代《いま》で言えば、まア、インテリ失業者とモダンボーイの大群、そいつが群衆の中にまじって、
「老師がお亡くなりになった今日《こんにち》、必然的に後継《あとめ》の問題が起こっておるであろう。イヤ、身どもが萩乃どのとひとこと話しさえすれば……」
「何を言わるる。御礼の不知火銭を拾うのは、拙者にきまっておる。バラバラッときたら、抜刀して暴れまわる所存だ。武運つたなく敢《あえ》ない最期をとげたなら、この髪を切って、故郷《くに》なる老母のもとへ――」
 決死の覚悟とみえます。
 萩乃がお目あてなのは、さむらいだけじゃアない。町内の伊勢屋のどら息子、貴賤老若、粋《すい》不粋《ぶすい》、千態万様、さながら浮き世の走馬燈で、芋を洗うような雑沓。
 金も拾いたいし、お嬢さんにも近づきたい……欲と色の綯《な》いまぜ手綱だから、この早朝から、いやもう、奔馬のような人気|沸騰《ふっとう》……。
 妻恋小町の萩乃さま。
 本尊が小野の小町で、美人というと必ずなになに小町――一町内に一人ぐらいは、小町娘がいたもので、それも、白金町《しろがねちょう》だからしろがね小町《こまち》とか、相生町《あいおいちょう》で相生小町《あいおいこまち》などというのは、聞く耳もいいが、おはぐろ溝小町《どぶこまち》、本所割下水小町《ほんじょわりげすいこまち》なんてのは感心しません。ある捻った人が、小町ばっかりで癪《しゃく》だというので、大町《おおまち》とやって見た。白金大町《しろがねおおまち》、あいおい大町《おおまち》どうもいけません。下に番地がくっつきそうで――。
 やっぱり、美女は小町。
 小町は、妻恋小町の萩乃様。
 と、こういうわけで、きょうは司馬先生のお葬式だが、折りからの好天気、あのへんいったい、まるでお祭りのような人出です。

       四

 門前には、白黒の鯨幕を張りめぐらし、鼠いろの紙に忌中《きちゅう》と書いたのが、掲げてある。門柱にも、同じく鼠色の紙に、大きく撒銭仕候《まきぜにつかまつりそろ》と書いて貼り出してあるのだ。このごろは西洋式に、黒枠をとるが、むかしは葬儀には、すべてねずみ色の紙を用いるのが、礼であった。
 大玄関には、四|旒《りゅう》の生絹《すずし》、供えものの唐櫃《からびつ》、呉床《あぐら》、真榊《まさかき》、根越《ねごし》の榊《さかき》などがならび、萩乃とお蓮さまの輿《こし》には、まわりに簾《すだれ》を下げ、白い房をたらし、司馬家の定紋《じょうもん》の、雪の輪に覗き蝶車の金具が、燦然《さんぜん》と黄のひかりを放っている。
 やしきの奥には。
 永眠の間の畳をあげ、床板のうえに真あたらしい盥《たらい》を置いて、萩乃やお蓮さまや、代稽古峰丹波の手で、老先生の遺骸に湯灌を使わせて納棺《のうかん》してある。
 在りし日と姿かわった司馬先生は、経かたびら、頭巾、さらし木綿の手甲《てっこう》脚絆をまとい、六文銭を入れたふくろを首に、珠数を手に、樒《しきみ》の葉に埋まっている。四方流れの屋根をかぶせた坐棺の上には、紙製の供命鳥《くめいちょう》を飾り、棺の周囲に金襴の幕をめぐらしてあるのだった。
 仏式七分に神式三分、神仏まぜこぜの様式……。
 玄関の横手に受付ができて、高弟のひとりが、帳面をまえに控えている。すべて喪中に使う帳簿は紙を縦にふたつ折りにして、その口のほうを上に向けてとじ、帳の綴り糸も、結び切りにするのが、古来の法で、普通とは逆に、奥から書きはじめて初めにかえるのである。
 大名、旗下、名ある剣客等の弔問、ひきもきらず、そのたびに群衆がざわめいて、道をひらく。土下座する。えらい騒ぎだ。
 萩乃は、奥の一間に、ひとり静かに悲しみに服しているものとみえる。お蓮さまも、表面だけは殊勝げに、しきりに居間で珠数をつまぐりながら、葬服の着つけでもしているのであろう。ふたりとも弔客や弟子たちの右往左往するおもて座敷のほうには、見えなかった。
 やがてのことに、わっとひときわ高く、諸人のどよめきがあがったのは、いよいよ吉凶禍福《きっきょうかふく》につけ、司馬道場の名物の撒銭《まきぜに》がはじまったのである。
 江都評判の不知火銭……。
 白無垢《しろむく》の麻裃をつけた峰丹波、白木の三宝にお捻りを山と積み上げて、門前に組みあげた櫓のうえに突っ立ち、
「これより、撒《ま》きます――なにとぞ皆さん、ともに、故先生の御冥福をお祈りくださるよう」
 どなりました。りっぱな恰幅《かっぷく》。よくとおる声だ。
 すると、一時に、お念仏やお題目の声が、豪雨のように沸き立って、
「なむあみだぶつ、なんみょうほうれんげきょう……!」
 丹波は一段と声を励まし、
「例によって、このなかにたった一つ、当家のお嬢様がお礼とおしたためになった包みがござる。それをお拾いの方は、どうぞ門番へお示しのうえ、邸内へお通りあるよう、御案内いたしまする」
 バラバラッ! と一掴み、投げました。

   招かざる客


       一

 ひとつの三宝が空《から》になると、あとから後からと、弟子が、銭包みを山盛りにしたお三宝をさしあげる。
 丹波はそれを受け取っては、眼下の人の海をめがけて、自分の金じゃアないから、ばかに威勢がいい。つかんでは投げ、掴んでは投げ……。
 ワーッ! ワッと、大浪の崩れるように、人々は鬨《とき》の声をあげて、拾いはじめた。
 拾うというより、あたまの上へ来たやつを、人より先に跳びあがり、伸びあがって、ひっ掴むんです。こうなると、背高童子が一番割りがいい。
 押しあい、へし合い、肩を揉み足を踏んづけあって、執念我欲の図……。
「痛えっ! 髷《まげ》をひっぱるのあ誰だっ!」
「おいっ、襟首へ手を突っこむやつがあるか」
「何いってやんでえ。我慢しろい。てめえの背中へお捻りがすべりこんだんだ」
「おれの背中へとびこんだら、おれのもんだ。やいっ、ぬすっと!」
「盗人だ? 畜――!」
 畜生っ! とどなるつもりで、口をあけた拍子に、その口の中へうまく不知火銭が舞いこんで、奴《やっこ》さん、眼を白黒しながら、
「ありがてえ! 苦しい……」
 どっちだかわからない。死ぬようなさわぎです。
 どこへ落ちるか不知火銭。
 誰に当たるか不知火小町のお墨つき――。
 見わたす限り人間の手があがって、掴もうとする指が、まるでさざなみのように、ひらいたりとじたりするぐあい、じっと見てると、ちょうど穂薄《ほすすき》の野を秋風が渡るよう……壮観だ。
「お侍さまっ! どうぞこっちへお撒きくださいっ」
 と、女の声。かと思うと、
「旦那! あっしのほうへ願います。あっしゃアまだ三つしか拾わねえ」
 あちこちから呶声がとんで、
「三つしか拾わぬとは、なんだ。拙者はまだ一つもありつかぬ」
「この野郎、三つも掴みやがって、当分不知火銭で食う気でいやアがる」
 中には、お婆さんなんか、両手に手ぬぐいをひろげて、あたまの上に張っているうちに、人波に溺れて群衆の足の間から、
「助けてくれッ!」
 という始末。おんなの悲鳴、子供の泣き声……中におおぜいの武士がまじっているのは、武士は食わねど高楊枝などとは言わせない、皮肉な光景で。
 もっとも、さむらいは、例外なしに萩乃様のおひねりが目的だから、躍りあがって掴んでみては、
「オ! これは違う。おっ! とこれもちがう……」
 違うのは、捨てるんです――じぶんの袂へ。
 この大騒動の真っ最中、もう一つ騒動が降って湧いたというのはちょう
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