り》にのっている。
血の沼に爪立ちして、源三郎、ふところ手だ。
「硯《すずり》と料紙をもて」
と言った。
なにも斬らんでも……と玄心斎は、くちびるを紫にして、立ちすくんでいた。
門弟たちは、まだ源三郎をさがしているのだろう。シインとした本陣の奥に、廊下廊下を行きかう跫音《あしおと》ばかり――この行燈部屋の抜き討ちには、誰も気づかぬらしい。
「萩乃さまの儀は、いかがなさるる御所存……」
玄心斎が、暗くきいた。
「筆と紙を持ってこい」源三郎は欠伸をした。
「兄と司馬先生の約束で、萩乃は、余の妻ときまったものだ。会ったことはないが、あれはおれの女だ」
「司馬老先生は、大病で、明日をも知れんと、いまこのおんなが申しましたな」
源三郎は、ムッツリ黙りこんでいる。仕方なしに、玄心斎が、そっと硯と紙を持ってくると、源三郎一筆に書き下して、
[#ここから2字下げ]
「押しかけ女房というは、これあり候《そうら》えども、押しかけ亭主も、また珍《ちん》に候わずや。いずれ近日、ゆるゆる推参、道場と萩乃どのを申し受くべく候《そうろう》」
[#ここで字下げ終わり]
そして、源三郎、つかつかと首のそばへ行って、しゃがむが早いか、固く結んだ歯を割って、首に、その書状《てがみ》をくわえさせた。
「これを、妻恋坂へ届けろ」
と、また欠伸をした。
首手紙……玄心斎が、緊張した顔でうなずいたとたん、女の死体のたもとから、白い紙片ののぞいているのに眼をとめた源三郎、引きだしてみると、書きつけのようなもので、「老先生が死ぬまで、せめて二、三日、なんとでもして伊賀の暴れん坊を江戸へ入れるな」という意味のことが書いてある。
筆者は、峰丹波《みねたんば》……。
「その者は、司馬道場の代稽古《だいげいこ》、お蓮さまのお気に入りで、いわば妻恋坂の城代家老でござります」
「フフン、一味だな」
と源三郎、紙の端へ眼をかえして、
「この、宛名の与吉《よきち》というのは何ものか」
「つづみの与吉――それは、三島の宿で雇って、眼はしのききますところから、お供《とも》に加えてここまでつれまいった人足ですが、さては、司馬のまわし者……」
玄心斎がそこまで言ったとき、廊下に多勢《おおぜい》の跫音がド、ドドッと崩れこんできました。
二
「御師範代は、こちらでござりますかっ? タタ、たいへんなことが――」
「開《あ》けてはならぬっ! 障子のそとで申せっ! なんだ」
玄心斎の大声に、一同べたべたと一間のたたみ廊下に手を突くけはいがして、
「こけ猿が紛失いたしました」
室内の玄心斎、障子を背におさえたまま、サッと顔いろをかえた。
「ナニ、こけ猿が? して、お供の人数の中に、何人《だれ》か見あたらぬ者はないかっ?」
「かの、つづみの与吉と申すものが、おりませぬ」
「チェッ! してやられたか。遠くは行くまい。品川じゅうに手分けしてさがせっ!」
と玄心斎の下知《げち》に、バラバラっと散って行く伊賀の若ざむらいども。
「殿、お聞きのとおり、あのつづみの与吉めが、耳こけ猿を持ち出しましてござります。察するところ、彼奴《きゃつ》、妻恋坂の峰丹波の命を受け、三島まで出張りおって、うまうまお行列に加わり……ウヌッ!」
「そうであろう」
源三郎は、淡々として水のごとき顔いろ、
「そこへ、今夜この女が、与吉と連絡をとりに、入りこんだものであろう。こけ猿は、なんとしても取り返せ」
「御意《ぎょい》!」
玄心斎も、柄《つか》をおさえて、走り去った。
こけ猿というのは……。
相阿弥《そうあみ》、芸阿弥《げいあみ》の編した蔵帳《くらちょう》、一名、名物帳《めいぶつちょう》の筆頭にのっている天下の名器で、朝鮮渡来の茶壺である。
上薬《うわぐすり》の焼きの模様、味などで、紐のように薬の流れているのは、小川。ボウッと浮かんでいれば、かすみ、あけぼの、などと、それぞれ茶人のこのみで名があるのだが、この問題の茶壺は、耳がひとつ欠けているところから、こけ猿の名ある柳生家伝来の大名物。
このたび、源三郎婿入りの引出ものに、途中もずっとこの茶壺一つだけ駕籠に乗せて、大大名の格式でおおぜいで警護してきたのだ。
そのこけ猿の茶壺が、江戸を眼のまえにしたこの品川の泊りで、司馬道場の隠密つづみの与吉に、みごと盗みだされたのだった。
肩をいからした柳生の弟子ども、口々にわめきながら、水も洩らさじと品川の町ぜんたいを右往左往する。首を送りこむ役は、門之丞にくだって、手紙をくわえた女の生首は、油紙《ゆし》にくるんで柳生の定紋うった面箱《めんばこ》におさめられ、ただちに夜道をかけて妻恋坂へとどけられた。挑戦の火ぶたは、きられたのです。
宿役人の杞憂《きゆう》は、現実となった。春は御殿山《ごてんやま》のさくら。秋は、あれ見やしゃんせ海晏寺《かいあんじ》のもみじ……江戸の咽喉《のど》しながわに、この真夜中、ときならぬ提灯の灯が点々と飛んで、さながら、夏は蛍の名所といいたい景色――。
上様《うえさま》お風呂《ふろ》
槙《まき》の湯船の香が、プンとにおう。この風呂桶は、毎日あたらしいのと換えたもので……。
八畳の高麗縁《こうらいぶち》につづいて、八畳のお板の間、壁いっぱいに平蒔絵《ひらまきえ》をほどこした、お湯殿である。千代田のお城の奥ふかく、いま、八代|吉宗公《よしむねこう》がお風呂を召していらっしゃる。
ふしぎなことには、将軍さまでも、お湯へおはいりのときは裸になったものです。
余談ですが、馬関《ばかん》の春帆楼《しゅんぱんろう》かどこかで、伊藤博文公がお湯へはいった。そのとき、流しに出た者が、伊藤さんが手拭で、前をシッカとおさえているのを見て、あの伊藤さんてえ人は下賤の生れだといったという。高貴の生れの方は、肉体を恥じないものだそうです。
今この、征夷大将軍源氏の長者、淳和奨学両院別当《じゅんなしょうがくりょういんべっとう》、後に号《ごう》して有徳院殿といった吉宗公も、こうしてはだかで御入浴のところは、熊公《くまこう》八|公《こう》とおなじ作りの人間だが、ただ、濡れ手拭を四つに畳んであたまへのせて、羽目板を背負って、「今ごろは半七さん……」なんかと、女湯に聞かせようの一心で、近所迷惑な声を出したり――そんなことはなさらない。
御紋《ごもん》散らしの塗り桶を前に、流し場の金蒔絵の腰かけに、端然《たんぜん》と控えておいでです。
五本骨の扇、三百の侯伯をガッシとおさえ、三つ葉|葵《あおい》の金紋六十余州に輝いた、八代吉宗といえば徳川も盛りの絶頂。
深閑とした大奥。
松をわたってくる微風《かぜ》が、お湯どのの高窓から吹きこんで、あたたかい霧のような湯気が、揺れる。
吉宗公は、しばらく口のなかで、なにか謡曲の一節をくちずさんでいたが、やがて、
「愚楽《ぐらく》! 愚楽爺《ぐらくじい》はおらぬか。流せ」
とおっしゃった。
お声に応じて、横手の、唐子《からこ》が戯《たわむ》れている狩野派《かのうは》の図《ず》をえがいた塗り扉をあけて、ひょっくりあらわれた人物を見ると、……誰だってちょっとびっくりするだろう。
これが、いま呼んだ愚楽老人なのか。なるほど、顔を見ると年寄りに相違ないが――身体は、こどもだ。まるで七つ八つの子供だ。
身長三尺……それでいて、白髪をチョコンと本多に結い、白い長い眉毛をたらし、分別くさい皺《しわ》ぶかい顔――うしろから見ると子供だが、前から見ると、このこどものからだに、大きな老人の顔がのっかっている異形な姿。
おまけに、この愚楽老人亀背なんです。
そいつが、白羽二重のちゃんちゃんこを一着におよんで、床屋の下剃り奴《やっこ》のはくような、高さ一尺もある一本歯の足駄をはいて、
「ごめん――」
太いしゃ嗄《が》れ声でいいながら、将軍さまのうしろにまわり、しごくもっともらしい顔つきで、ジャブジャブ背中を洗いはじめたから、こいつは奇観だ。
すると、八代様、思いだしたように、
「のう、愚楽、来年の日光の御造営は、誰に当てたものであろうのう」
と、きいた。
二
二十年目、二十年目に、日光東照宮の大修繕をやったものだった。
なにしろ、あの絢爛《けんらん》をきわめた美術建築が、雨ざらしになっているのだから、ちょうど二十年もたてば、保存の上からも、修理の必要があったのだろうが、それよりも、元来、徳川の威を示し、庶民を圧伏《あっぷく》するのが目的で建てられた、あの壮麗眼をうばう大祖廟《だいそびょう》だから、この二十年目ごとの修営も、葵《あおい》の風に草もなびけとばかり、費用お構いなし、必要以上に金をかけて、大々的にやったもので。
もっとも、幕府が自分でやるんではない。
諸侯の一人をお作事《さくじ》奉行に命じて、造営費いっさいを出させるんです。人の金だから、この二十年目のお修復にはじゃんじゃんつかわせた。
これにはまた、徳川としては、ほかに意味があったので――。
天下を平定して、八世を経てはいるが、外様の大大名が辺国に蟠踞《ばんきょ》している。外様とのみいわず、諸侯はみな、その地方では絶大の権力を有し、人物才幹《じんぶつさいかん》、一|癖《くせ》も二|癖《くせ》もあるのが、すくなくない。
謀叛《むほん》のこころなどはないにしても、二代三代のうちに自然に金が溜まって、それを軍資にまわすことができるとなれば、ナニ、徳川も昔はじぶんと同格……という考えを起こして、ふと、反逆心が兆《きざ》さぬでもない。
それを防ぐために、二十年目ごとに、富を擁《よう》しているらしい藩を順に指名して、この日光山大修復のことに当たらせ、そのつもった金を吐きださせようという魂胆であった。
いわば、出来ごころ防止策。
だから、この二十年目の東照宮修営を命じられると、どんな肥《ふと》った藩でも、一度でげっそり痩《や》せてしまう。
大名連中、「日光お直し」というと天下の貧乏籤《びんぼうくじ》、引き当てねばよいが……と、ビクビクものであった。
でき得べくんば、他人《よそ》さまへ――という肚《はら》を、みんなが持っている。で、二十年目が近づくと、各藩とも金を隠し、日本中の貧乏をひとりで背負ったような顔をして、わざと幕府へ借金を申し込むやら、急に、爪に火をともす倹約をはじめるやら……イヤ、その苦しいこと、財産|隠蔽《いんぺい》に大骨折りである。
ところが、江戸の政府も相当なもので、お庭番と称する将軍さまおじきじきの密偵が、絶えず諸国をまわっていて、ふだんの生活ぶりや、庶民の風評を土台に、ちゃんと大名たちの財産しらべができているのだ。ごまかそうたって、だめ……。
このお庭番の総帥が、これなるお風呂番、愚楽老人なのでございます。
来年は、その二十年めに当たる。
「今度は、誰に下命したものであろうの」
「さようですな。伊賀の柳生対馬あたりに――」
と、愚楽老人、将軍さまのお肩へ、せっせと湯をかけながら、答えました。
三
八代さまの世に、日光修繕の模様はどうかというと、御番所日記、有徳院御実記《うとくいんごじっき》などによれば……
小さな修営は、享保《きょうほう》十五年、この時の御修復検分としましては、お作事奉行《さくじぶぎょう》小菅因幡守《こすげいなばのかみ》、お大工頭《だいくがしら》近藤郷左衛門《こんどうきょうざえもん》、大棟梁《だいとうりょう》平内《ひらうち》七|郎右衛門《ろうえもん》、寛保三年、同四年、奉行《ぶぎょう》曾我日向守《そがひゅうがのかみ》、お畳奉行《たたみぶぎょう》別所播磨守《べっしょはりまのかみ》、くだって延享《えんきょう》元年――と、なかなかやかましいものであります。
が、これらは、中途の小手入れ。
例の二十年目の大げさなやつは、先代|有章院《ゆうしょういん》七代|家継公《いえつぐこう》のときから数えて二十年めにあたる享保十六年|辛亥《かのとい》……この時の造営奉行、柳生対馬守とチャンと出ている。
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