悪いところへ逃げこみやがって――驚いた! 丹下左膳とは、イヤハヤおどろいた!
 ニタニタッと笑った時が、いちばん危険な丹下左膳、もうすこしで斬られるところだった。あやうく助かったのはいいが、またしても心配になるのは、なんといって峰丹波様に言いわけしたらいいか……。
 それを思うと、妻恋坂へ向かいだした与の公の足は、おのずと鈍ってしまう。
 しかし待てよ、駒形高麗屋敷と、吾妻橋と、つい眼と鼻のあいだにいながら、櫛巻きの姐御は、丹下様が生きてることを知らねえのだ。あの左膳の居どころを、お藤姐御にそっと知らせたら、またおもしろい芝居が見られないとも限らない……。
 そんなことを思って、ひとり含み笑いを洩らしながら、与吉がしょんぼりやってきたのは、考えごとをして歩く道は早い、もう本郷妻恋坂、司馬道場の裏口だ。
 お待ち兼ねの柳生の婿どのに会わぬうちは、死ぬにも死にきれぬとみえて、司馬老先生は、まだ虫の息がかよっているのだろう。広いやしきがシインと静まりかえっている。この道場によって食べている付近の町家一帯も、黒い死の影におびえて、鳴り物いっさいを遠慮し、大きな声ひとつ出すものもない。
 なんと
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