気のよどんだ、江戸の夏の真昼。隣近所のびっしり立てこんだこの高麗やしきのまん中で、ひとりのあやしいまでに美しい大年増が、水色ちりめんの湯まきをチラリこぼして、横ずわり――爪弾きの音も忍びがちに、あろうことか、尺取り虫に三味を聞かせているんで。
 お藤はじっと眼を据えて、這いまわる尺取り虫を見つめながら、ツンツルルン、チチチン、チン……。
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「尺とれ、背取れ
足のさきから頭まで
尺をとったら
命《いのち》取れ――」
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 一生けんめいに呼吸をつめて、唄っているお藤の額は、汗だ、あぶら汗だ。この汗は、閉め切った部屋の暑さのせいばかりではない。人間のもつ精神力のすべてを、三味と唄とに集中して櫛まきお藤は、いま、一心不乱の顔つきです。
 上気した頬のいろが、見る間にスーッと引いて、たちまち蒼白《そうはく》に澄んだお藤は、無我の境に入ってゆくようです。
 背を高く丸く持ちあげては、長く伸びて、伸びたり縮んだりしながら、思い思いの方角に這ってゆく尺取り虫……。
 西洋の言葉に、「牡蠣《かき》のように音楽を解しない」というのがあります。また蓄音機のマークに
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