萩乃は、じぶんの座敷にひそかにたれこめて、侍女のすすめる白絹の葬衣に、袖をとおす気力だにない。
床の間に、故父《ちち》の遺愛の品々が飾ってある。それに眼が行くたびに、あらたなる泪《なみだ》頬を伝うて、葬列に加わるしたくの薄化粧は、朝から何度ほどこしても、流れるばかり……婢《おんな》どもも、もらい泣きに瞼をはらして、座にいたたまれず、いまはもう、みんな退室《さが》ってしまった。
ひとりになった萩乃は、なおもひとしきり、思うさま追憶のしのび泣きにふけったが――。この深い悲哀の中にも。
ただ一条、かすかによろこびの光線《ひかり》とも思われるのは、父があんなに待ったにもかかわらず、とうとう源三郎様がまに合わないで、死にゆく父の枕頭で、いやなお方と仮《か》りの祝言《しゅうげん》のさかずきごとなど、しないですんだこと。
源三郎の名を思い起こすと、萩乃はどんな時でも、われ知らず身ぶるいが走るのだった。
伊賀のあばれん坊なんて、おそろしい綽名《あだな》のある方、それは熊のような男にきまっている……ふつふつ嫌な――!
その源三郎が、どういう手ちがいか、いまだ乗りこんでこないのだから、いくら父
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