二人のおんなは、言いあわしたように口をつぐみ、耳をそばだてた。
 裏庭のほうからは、まだ血戦のおめきが、火気のように強く伝わってくる。
 と思うと、時ならぬ静寂が耳を占めるのは、敵味方飛びちがえてジッと機をうかがっているのであろう……。
 と、このとき、けたたましいあし音が長廊下を摺ってきて、病間にのこして来た侍女の声、
「奥様、お嬢さま! こちらでいらっしゃいますか。あの、御臨終でございます。先生がもう――」

       三

 今まで呼吸《いき》のつづいたのが、ふしぎであった。
 医師はとうに匙《さじ》を投げていたが、源三郎に会わぬうちは……という老先生の気組み一つが、ここまでもちこたえてきたのだろう。
 丹波とお蓮様を首謀者に、道場乗っ取りの策動が行なわれているなどとは、つゆ知らぬ司馬先生――めざす源三郎が、とっくのむかしに品川まで来て、供のもの一同はそこで足留めを食い、源三郎だけが姿を変えて、このやしきに乗りこんでいようとは、もとよりごぞんじない。
 ただ、乱暴者が舞いこんだといって、今、うら手にあたって多勢の立ち騒ぐ物音が、かすかに伝わってきているが、先生はそれを耳にしながら、とうとう最期の息をひきとろうとしています。
 燭台を立てつらねて、昼よりもあかるい病間……司馬先生は、眼はすっかり落ちくぼみ、糸のように痩せほそって、この暑いのに、麻の夏夜具をすっぽり着て、しゃれこうべのような首をのぞかせている。もう、暑い寒いの感覚はないらしい。
 はっはっと喘《あえ》ぎながら、
「おう、不知火が見える。筑紫の不知火が――」
 と口走った。たましいは、すでに故郷へ帰っているとみえる。
 並《な》みいる医師や、二、三の高弟は、じっとあたまをたれたまま、一言も発する者はない。
 侍女に導かれて、お蓮様と萩乃が泣きながらはいってきた。
 覚悟していたこととはいえ、いよいよこれがお別れかと、萩乃は、まくらべ近くいざりよって、泣き伏し、
「お父さま……」
 と、あとは涙。お蓮の眼にも、なみだ――いくらお蓮さまでも、こいつは何も、べつに唾をつけたわけじゃアない。
 女性というものは、ふしぎなもので、早く死んでくれればいいと願っていたお爺さんでも、とうとう今あの世へ出発するのかと思うと、不意と心底から、泪《なみだ》の一つぐらいこぼれるようにできているんです。
 よろめきながら、峰丹波がはいってきた。
 やっと意識をとり戻してまもないので、髪はほつれ、色|蒼《あお》ざめて、そうろうとしている。
「先生ッ!」
 とピタリ手をついて、
「お心おきなく……あとは、拙者が引き受けました」
 こんな大鼠《おおねずみ》に引き受けられては、たまったものじゃない。
 すると、先生、ぱっと眼をあけて、
「おお、源三郎どのか。待っておったぞ」
 と言った。丹波がぎょっとして、うしろを振り向くと、だれもいない。死に瀕した先生の幻影らしい。
「源三郎殿、萩乃と道場を頼む」
 丹波、仕方がないから、
「はっ。必ずともにわたくしが……」
「萩乃、お蓮、手を――手をとってくれ」
 これが最後の言葉でした。先生の臨終と聞いて、斬合いを引きあげてきた多くの弟子たちが、どやどやッと室内へ雪崩《なだれ》こんできた。

       四

 一人が室内から飛んできて、斬りあっている連中に、何かささやいてまわったかと思うと……。
 一同、剣を引いて、あわただしく奥の病間のほうへ駈けこんでいった後。
 急に相手方がいなくなったので、左膳と源三郎は、狐につままれたような顔を見あわせ、
「なんだ、どうしたのだ――」
「知らぬ。家の中に、なにごとか起こったとみえる」
「烏《からす》の子が巣へ逃げこむように飛んで行きおった、ははははは」
「はっはっはっ、なにが何やら、わけがわからぬ」
 ふたりは、腹をゆすって笑いあったが、左膳はふと真顔にかえって、
「わけがわからぬといえば、おれたちのやり口も、じぶんながら、サッパリわけがわからぬ。おれとおめえは、今夜はじめて会って、いきなり斬り結び、またすぐ味方となり、力をあわせて、この道場の者と渡り合った……とまれ、世の中のことは、すべてかような出たらめでよいのかも知れぬな、アハハハハ」
「邪魔者が去った、いま一手まいろうか」
 闇の中で、あお白く笑った源三郎へ、丹下左膳は懶《ものう》げに手を振り、
「うむ、イヤ、また後日の勝負といたそう。おらアお前《めえ》をブッタ斬るには、もう一歩工夫が肝腎だ」
「いや、拙者も、尊公のごとき玄妙不可思議《げんみょうふかしぎ》な手筋の仁《じん》に、出会ったことはござらぬ。テ、テ、天下は広しとつくづく思い申した」
 濡れ燕を鞘におさめた左膳と、峰丹波の刀を草に捨てて、もとの丸腰の植木屋に戻った柳生源三郎と――名人、名人を
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