微動だにしない。あれから与吉が浅草へ往復するあいだ、ずいぶんたったのに、まださっきのまんまだ。

       七

 与吉が、そっとうしろからささやいて、
「丹下さま、こいつアいってえどうしたというんでげしょう。あっしが、あなた様をお迎いに飛び出した時と、おんなじ恰好《かっこう》だ。あれからずっとこのまんまとすると、二人とも、おっそろしく根気のいいもんでげすなア」
 その与吉の声も、左膳の耳には入らないのか、かれは、蒼白《まっさお》な顔をひきつらせて、凝然と樹蔭に立っている。
 ひしひしと迫る剣気を、その枯れ木のような細長い身体いっぱいに、しずかに呼吸して、左膳は、別人のようだ。
 与吉とかれは、裏木戸の闇の溜まりに、身をひそめて、源三郎と丹波の姿を、じっと見つめているのである。
 藍を水でうすめたような、ぼうっと明るい夜だ。物の影が黒く地に這って……耳を抉《えぐ》る静寂。
 夏の晴夜は、更《ふ》けるにしたがって露がしげって、下葉《したば》に溜まった水粒が、ポタリ! 草を打つ音が聞こえる――。
 源三郎は、その腰をおろしている庭石の一部と、化したかのよう……ビクとも動かない。
 白い鏡とも見える一刀を、青眼に取ったなり、峰丹波は、まるで大地から生えたように見える。斬っ尖《さき》ひとつうごかさず、立ったまま眠ってでもいるようだ。
 二分、三分、五分……この状態はいつ果つべしともなく、続いていきそうである。
 邸内《なか》では、だれもこの、裏庭にはらんでいる暴風雨《あらし》に気づかぬらしく、夜とともに静まりかえっている。病先生のお部屋のあたりに、ぱっと灯が洩れているだけで、さっきまで明りの滲んでいた部屋部屋も、ひとつずつ暗くなってゆく。
 左膳は、口の中で何やら唸りながら、源三郎と丹波を交互《かたみ》に見くらべて、釘づけになっているのだ。二人は、左膳と与吉の来ていることなど、もとより意識にないらしい。
 と、たちまち、ふしぎなことが起こったのだ。
 丹波の口から、低い長い呻き声が流れ出たかと思うと……かれ丹波、まるで朽ち木が倒れるように、うしろにのけぞって、ドサッ! 地ひびき打って仰向けに倒れた。
 かた手に抜刀をさげたまま――そして、草に仰臥したなり、その大兵《たいひょう》のからだは長々と伸びきって、すぐ眠りにはいったかのよう……丸太のごとくうごかない。
 むろん斬られたのではない。気に負けたのである。
 源三郎は、何ごともなかったように、その丹波のようすを見守っている。
 左膳が、ノッソリと、その前に進み出た。

       八

「オウ、若えの」
 と左膳は、源三郎へ顎をしゃくって、
「この大男は、じぶんでひっくりけえったんだなア」
 源三郎は、不愛想な顔で、左膳を見あげた。
「ウム、よくわかるな。余はこの石に腰かけて、あたまの中で、唄を歌っておったのだよ。全身すきだらけ……シシシ然るに丹波は、それがかえって怖ろしくて、ど、どうしても撃ちこみ得ずに、固くなって気をはっておるうちに、ははははは、じぶんで自分の気に負けて――タ丹波が斬りこんでまいったら、余は手もなく殺《や》られておったかも知れぬに、こらッ、与吉と申したナ。その丹波の介抱をしてやれ。すぐ息を吹きかえすであろうから」
 与吉はおずおずあらわれて、
「ヘ、ヘエ。いや、まったくどうも、おどろきやしたナ」
 と意識を失っている丹波に近づき、
「といって、この丹波様を、あっしひとりで、引けばとて押せばとて、動こう道理はなし……弱ったな」
 左膳へ眼をかえした源三郎、
「タ、誰じゃ、貴様は」
 ときいた。
 眼をトロンとさせて、酔ったようによろめきたっている左膳は、まるで、しなだれかかるように源三郎に近づき、
「誰でもいいじゃアねえか。おれア、伊賀の暴れン坊を斬ってみてえんだ。ヨウ、斬らせてくれ、斬らせてくれ……」
 甘えるがごとき言葉に、源三郎は、気味わるげに立ちあがって、
「妙《みょう》なやつだ」
 つぶやきながら、倒れている丹波のそばへ行って、
「カカカ借りるぞ」
 と、その握っている刀をもぎとり、さっと振りこころみながら、
「植木屋剣法――うふふふふふ」
 と笑った。
 変わった構えだ。片手に刀をダラリとさげ、斬っさきが地を撫でんばかり……足《そく》を八の字のひらき、体をすこしく及び腰にまげて、若い豹《ひょう》のように気をつめて左膳を狙うようす。
 一気に!――と源三郎、機を求めて、ジリ、ジリ! 左へ左へと、まわってくる。
 濡れ燕の豪刀を、かた手大上段に振りかぶった丹下左膳、刀痕の影を見せて、ニッと微笑《わら》った。
「これが柳生の若殿か。ヘッ、青臭え、青臭え……」
 夜風が、竹のような左膳の痩せ脛に絡む。

       九

「おウ、たいへんだ! 鮪《まぐろ
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