の剃刀のように鋭い顔を、ニコニコさせて、黙っている。
「その妻恋坂のお女中が、何しにこうして姿をかえて、君の身辺に入りこんでおるのかっ? それが、解《げ》せぬ。解せませぬっ」
 怒声をつのらせた玄心斎、
「女ッ! 返事をせぬかっ!」
「うらないをしてもらっておったのだよ」
 うるさそうな源三郎の口調、
「なあ女。余は、スス、水難の相があるとか申したな」
 おんなは、ウフッ! と笑って、答えない。
「爺《じい》の用というのは、なんだ」
 と源三郎の眼が、玄心斎へ向いた。
「司馬の道場では、挨拶にやった門之丞を、無礼にも追いかえしましたぞ。先には、あなた様を萩乃さまのお婿に……などという気は、今になって、すこしもないらしい。奇《き》っ怪《かい》至極《しごく》――」
「女ア、き、貴様は、どこの者だ」
 女のかわりに、玄心斎が、
「故あってお蓮様の旨を体《たい》し、若のもとへ密偵《いぬ》に忍び入ったものであろう。どうじゃっ!」
「お察しのとおり、ホホホホ」
 すこしも悪びれずに、女が答えた。
「お蓮さまの一党は、継子の萩乃さまに、お婿さんをとって、あれだけの家督をつがせるなんて、おもしろくないじゃアありませんか。それに、司馬の大先生は、いま大病なんですよ。きょうあすにも、お命があぶないんです。老先生がおなくなりになれば、あとはお蓮様の天下……ほほほ、それまでこの若様をお足どめして、かたがたようすをさぐるようにと、まア、あたしは、色じかけのお道具というところでしょうね」
「うぬっ、ここまでまいってかかる陰謀があろうとは――若っ、いかがなさるるっ」
 と! 瞬間、ニヤニヤして聞いていた源三郎、胡坐《あぐら》のまま、つと上半身をひねったかと思うと、その手に、ばあっ! 青い光が走って、
「あウッ!」
 いま歓《かん》を通じたばかりの女の首が、ドサリ、血を噴いて、畳を打った。播磨大掾《はりまだいじょう》水無《みな》し井戸《いど》の一刀はもう腰へかえっている。
 玄心斎、胆をつぶして、空《くう》におよいだ。

   耳こけ猿《ざる》


       一

 首のない屍骸は、切り口のまっ赤な肉が縮《ちぢ》れ、白い脂肪を見せて、ドクドク血を吹いている。二、三度、四肢《てあし》が痙攣《けいれん》した。
 首は、元結が切れてザンバラ髪、眼と歯をガッ! と剥いて、まるで置いたように、畳の縁《へり》にのっている。
 血の沼に爪立ちして、源三郎、ふところ手だ。
「硯《すずり》と料紙をもて」
 と言った。
 なにも斬らんでも……と玄心斎は、くちびるを紫にして、立ちすくんでいた。
 門弟たちは、まだ源三郎をさがしているのだろう。シインとした本陣の奥に、廊下廊下を行きかう跫音《あしおと》ばかり――この行燈部屋の抜き討ちには、誰も気づかぬらしい。
「萩乃さまの儀は、いかがなさるる御所存……」
 玄心斎が、暗くきいた。
「筆と紙を持ってこい」源三郎は欠伸をした。
「兄と司馬先生の約束で、萩乃は、余の妻ときまったものだ。会ったことはないが、あれはおれの女だ」
「司馬老先生は、大病で、明日をも知れんと、いまこのおんなが申しましたな」
 源三郎は、ムッツリ黙りこんでいる。仕方なしに、玄心斎が、そっと硯と紙を持ってくると、源三郎一筆に書き下して、
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「押しかけ女房というは、これあり候《そうら》えども、押しかけ亭主も、また珍《ちん》に候わずや。いずれ近日、ゆるゆる推参、道場と萩乃どのを申し受くべく候《そうろう》」
[#ここで字下げ終わり]
 そして、源三郎、つかつかと首のそばへ行って、しゃがむが早いか、固く結んだ歯を割って、首に、その書状《てがみ》をくわえさせた。
「これを、妻恋坂へ届けろ」
 と、また欠伸をした。
 首手紙……玄心斎が、緊張した顔でうなずいたとたん、女の死体のたもとから、白い紙片ののぞいているのに眼をとめた源三郎、引きだしてみると、書きつけのようなもので、「老先生が死ぬまで、せめて二、三日、なんとでもして伊賀の暴れん坊を江戸へ入れるな」という意味のことが書いてある。
 筆者は、峰丹波《みねたんば》……。
「その者は、司馬道場の代稽古《だいげいこ》、お蓮さまのお気に入りで、いわば妻恋坂の城代家老でござります」
「フフン、一味だな」
 と源三郎、紙の端へ眼をかえして、
「この、宛名の与吉《よきち》というのは何ものか」
「つづみの与吉――それは、三島の宿で雇って、眼はしのききますところから、お供《とも》に加えてここまでつれまいった人足ですが、さては、司馬のまわし者……」
 玄心斎がそこまで言ったとき、廊下に多勢《おおぜい》の跫音がド、ドドッと崩れこんできました。

       二

「御師範代は、こちらでござりますかっ? タタ、たいへんなこと
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