ろく胸をおさえて、二人は、互いに眼の奥をみつめあった。すると、馬はここで、ひとつのふしぎなことをしたのだった。
馬は動物のなかで一番|利口《りこう》だといわれている。この馬は、源三郎の愛馬で、故郷伊賀からの途中も、駕籠でなければこの馬にまたがり、しじゅう親しんできたものだった。
あの、司馬十方斎先生の葬儀《そうぎ》の日に、不知火銭の中のただ一つの萩乃さまのお墨つきをつかんで、源三郎が首尾よく邸内へ押しこんだ時も、かれのさわやかな勇姿を支えていたのは、このたくましい栗毛の馬背《ばはい》であった。
今この馬のつかれきったようすで見ると、司馬寮の焼ける時、厩《うまや》につながれていたのが、火をくぐってぬけだし、主人のすがたを求めてひかれるように江戸へ立ちかえったものの、本郷への道を思い出せずにあちこちさまよい歩いたあげく、やっと今たどりついたものらしい。
馬がふしぎをあらわしたというのは、この時いきなり、何を思ったものか、鉄十郎の寝巻の袂《たもと》をくわえて、力をこめて庭へひきおろしたのだった。
三
五十嵐鉄十郎の寝間着の袂をくわえて、馬は、ぐんぐん庭へひっぱりおろす。
「ウム、これはいよいよ若殿のお身に……」
そのまも馬は、早く乗ってくれというように、からだを鉄十郎のほうへすりよせるのだった。
「これはこうしてはおられぬ。刀をとってくれ」
渡された刀を帯するより早く、鉄十郎はヒラリと馬にまたがった。
もうその時は、一同は起きいでて、上を下への騒ぎになっていた。
「何ッ、源三郎様のお馬が、帰ってきたと?」
「畜生のかなしさ、口をきけぬながらも……」
「何か一大事を知らせにきたものに相違ない」
「かわいいものだなア」
「殿は、あの馬をかわいがっておられたからな」
「そんなのんきなことを言っておる場合ではない。サ、したく、したく」
言われるまでもなく、皆もう用意をすまして、パラパラッと庭へ飛びおりると、
「鉄十郎殿はどうした」
「馬はどこにおる」
「鉄十郎を乗せて、ドンドン駈けていってしもうた」
「ソレ行け。見失うな」
ほのぼのと朝の色の動く司馬道場の通用門から、一隊の伊賀侍が、雪崩《なだれ》をうって押しだした。
見ると。
庭の柴折戸《しおりど》をやぶって飛びだした源三郎の愛馬、五十嵐鉄十郎を乗せたまま、砂煙をあげて妻恋坂を駈けおりていく。
一同はこけつまろびつつづいたが、先が馬ではすぐはぐれてしまう。気のきいたのが、自分たちも司馬家の馬小屋から、四、五頭ひきだしてきて、馬で後を追った。徒歩《かち》の者は、道みち駕籠を拾ってつづく。
騎馬の一人が連絡係となって時どき引っ返してきては、駕籠に方向を知らせておいて、また先頭に追いつく。
戞々《かつかつ》たる馬蹄の音が、寝おきの町を驚かせつつ、先駆の五十嵐鉄十郎の馬は、いっさん走りに向島を駈けぬけて、やがて葛飾へはいり、客人大権現の森かげなる司馬寮の焼け跡へついた。
馬というものは、おぼえのいいもので、帰りはむだ道一つせず、主人を思う一心から、ちゃんと火事跡へ駈けつけたのだ。
来てみると、鉄十郎は二度びっくりしなければならなかった。
一面に焼け木の横たわる惨澹《さんたん》たる屋敷跡に、今し激しい斬りあいが始まっているではないか。
こけ猿の探索に、かねて邪魔を入れている丹下左膳という隻眼片腕の浪人者が、左手に長剣を握って、焼け跡の真ン中にスックと立っている。
とりまく面々は、上屋敷にいる同藩の高大之進の一党。
「おのおの方、援軍到来!」
大声にさけびながら、鉄十郎は馬をおりた。
ほかの騎馬の侍もかけ着いて手早く刀の目釘を湿す。おくれて駕籠や徒歩《かち》の連中もみな到来した。伊賀勢は、ここに思わぬ大集団となったのである。
その後《ご》は御無沙汰《ごぶさた》
一
もう乱軍だった。
二重三重の剣輪が、ギッシリ左膳をとりまいている。こうなってはいかな左膳でも、空《そら》を翔《か》け、地にもぐる術のない以上、一本腕のつづくかぎり、斬って斬って斬りまくらねばならない……。
「ウフフ、枯れ木も山のにぎわいと申す。よくもこう木偶《でく》の坊がそろったもんだ」
刀痕の影深い片ほおに、静かな笑みをきざませて、左膳は野太い声でうめいた。
「この濡れ燕は、名代の気まぐれものだ。どこへ飛んでいくかわからねえから、そのつもりで応対しろよ」
女物の長襦袢《ながじゅばん》が、ヒラヒラ朝風になびく左膳の足もとに、すでに二、三の死骸がころがっているのは、そのくせの悪い濡れ燕に見舞われた、運の悪い伊賀者だ。
「皆あせってはならぬぞ。遠巻きにして、つかれるのを待つのじゃ」
高大之進の下知に、とりまく剣陣はすすまず、しりぞかず、ジッと切尖
前へ
次へ
全136ページ中129ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング