の強い、正しい、美しい女性を見たことがないと、左膳はスッカリ感心してしまったのだ。
その感心を胸にだいて帰る途中、月にいろどられ、夜のいぶきにそだてられて、いつのまにか恋ごころに変わったのを、左膳、自分でもどうすることもできませんでした。
「壺を持って出てくるおれを、白い顔に大きな眼をみはって、ジッと見送っていたっけ……」
筆の穂尖に墨をふくませながら、左膳は今、口の中にうめいた。
夜風とともに、恋風をひきこんじまった丹下左膳。
恋の奴《やっこ》の、剣怪左膳――。
左膳の妖刃、濡れ燕も、糸《いと》し糸《いと》しと言う心……戀の一字のこころのもつれだけは、断ちきることができないでございましょう。
イヤどうもとんでもないことになっちゃった。たった一つの眼も、恋にくらむとは、えらいことになるもので。
萩乃さんの身にとっては、門之丞という一難去って、また一難。虎が躍《おど》りでて、狼をかみころしてくれたのはいいが、こんどはその虎が、爪をみがいて飛びかかろうとしているようなもの……。
ですけれど。
恋にかけては、とっても内気の左膳なんですネ。
「なんと書いたらいいものだろうなア」
くちびるに墨をぬりながら、またつぶやいた。
これでみると、左膳のやつ、さっそく萩乃のところへ、手紙《ふみ》をやろうとしているらしい。
かたわらで、こけ猿の茶壺が、早くあけてくれ、早くあけてくれと、声なき声を発するがごとく――。
五
左膳、萩乃に心をとられて、せっかく手に入れたかんじんかなめのこけ猿を、たとえ一瞬時でもわすれたわけではございません。
それじゃア普段の左膳が泣く。
濡れ燕が、承知せぬ。
決してそういうわけじゃないんです。
ただ……さんざん世話をやかせた壺だけれど、壺に足があるわけではない。現実に、ここにこうして存在してるんだから、べつに逃げだしはいたしません。あけようと思えば、今にもあけて見られるのだから、あえていそぐにはあたらない。
まず、萩乃に一筆したためてから、ユックリあけてみるとしよう。見るまでの楽しみは大きいんですから、できるだけそのたのしみを長くしようという考え。
なんのことはない。
好きなお菓子《かし》をいただいたこどもが、すぐかぶりつけばよさそうなのに、なかなか食べないのと同じような心理で。
それよりも。
この壺の秘める密図の指示するところにしたがって、東西南北いずれにせよ、どっちみち明朝《あした》早く江戸を発足するのだから、もう当分、萩乃に会えない。
それを思うと左膳、がらにもなくちょっと暗然としちまうんです。
で。
また会う日まで……なんていうと、讃美歌みたいですが、とにかく左膳、なんとかしてあの萩乃様へ、今この心のたけを書き送っておきてエものだと――。
剣を持たせれば変通自在、よく剣禅一致ということを申しますが、わが左膳においては、剣もなく禅もなく、いわんやわれもなく、まったく空気のような、色もにおいも味もないほどの、武道の至妙境に達した男でありますが。
文《ふみ》はまた別。おまけに恋文。
「チッ!書けねえもんだなあ」
と、煙突掃除みたいな大髻《おおたぶさ》のあたまをかかえて、長火鉢の猫板に左膳の肘を突き、筆といっしょに顎をささえて一つッきりの眼をしかめ、ウンウンうなってるところは、まことに珍妙な図。
まったく、どなたかに助けに飛びだして、書いていただきたいくらいのもので……しかし、丹下左膳のやつが、ラブレターを書く身になろうたア思わなかった。
わからないもンですネ。
「ウッ、汗をかくだけで、一字も書けねえや」
剣妖、われながらつまらない洒落《しゃれ》をいった。
とたんに。
「何をお前さんウンウンうなってるんだい。お腹《なか》でも痛むの?」
ねてると思ったお藤姐御が、ムックリ枕から頭をあげて、皮肉なひとこと。
これには左膳も、不意の斬込みをくった以上にあわてて、
「ウンニャ、い、一首浮かんだから、わすれねえうちに書きとめておこうと思ってナ」
「オヤ、火鉢のひきだしに、一|朱《しゅ》あったのかえ」
「ナ、何を言やアがる。寝ぼけてねえで、早くねむっちめえ、ねむっちめえ!」
「お前さんも早くおやすみよ。油がむだだわサ」
お藤はそのまま、くるりと暗いほうを向いたが――ドッコイ、ねむってなるものか。
おんしたわしき萩乃どの……左膳は一気に、ぬれ燕ならぬ濡れ筆を、巻紙へ走らせたが、すぐ、
「まずいなア」
と一本黒々と線をひいて、そいつを消してしまった。
「ちえっ、若旦那のつけ文じゃアあるめえし――」
左膳、ひとりでてれて、かわいそうに、真っ赤になっています。
六
いつまでたっても、少女を感動させるような名文は、できそうもありま
前へ
次へ
全136ページ中110ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング