るところを泰軒先生、通行妨害というんで山田署へひっぱられちゃった。
 司法主任の方がとりしらべると、乞食のような風体だが、言うことがおそろしく大きい。
 奇抜なルンペン……ただの鼠じゃあるまいとなって、このとき、みずから泰軒を訊問したのが、当時、この伊勢山田のお奉行様だった大岡忠相でした。まだ越前守と任官しない前のことですな。
 そのとき、大岡様は泰軒にスッカリほれちまって、二人は、肝胆相照らす心の友となったのです。それからの交際だ。
 山田の大虎事件では、泰軒は説諭放免となり、その後数年にして大岡さまは、八代吉宗公に見いだされて、この生き馬の眼をぬく大江戸の奉行、南北にわかれて、二人ございますけれど、まあ現代で申せば警視総監と裁判所長をいっしょにしたような重職におつきになったのです。
 だから、桜田門外《さくらだもんがい》、奉行官邸の塀を乗りこえて、ぶらりはいってくるのも、先生一流のやり方で、べつに不思議はありませんが……。
 愚楽老人をつかまえて、
「化け物がきてる――」
 とは驚いた。が、より愕いたのは、そう言われた愚楽が、敷物をすべって、ピタリ、両手を突いたことです。

       八

 千代田の怪物、愚楽老人――将軍吉宗公の側近中の側近、何しろ、お風呂番なのですから、裸の将軍様をごしごしこする。文字どおり赤裸々の吉宗に接して、いろいろと最高政策の秘密のおはなしをなさるんです。
 上様のおっしゃることは、みんなこの愚楽老人から出るんだ……といわれたくらい。
 大老も老中も、若年寄りも、この愚楽のきげんを損じては、首があぶないから、一にも愚楽様々、二にも愚楽様々――。
 吉宗の政治は愚楽政治。
 まことに、威令《いれい》ならびなき垢すり旗本なんです。
 その愚楽老人をつかまえて、
「やあ、化け物がきてるな」
 という泰軒先生、怪物の上をゆく怪物か、さもなければ、こわいもの知らずのよっぽどの馬鹿か。
 両方なんです、泰軒先生は。
 相手に求めるところがあれば、自然、みずからが卑屈になる。
 世の中から何ものをも得ようと思っていない蒲生泰軒居士、ほんとに、愚楽老人なんか、ただのかわいそうな不具者としか眼にうつらない。
 しかし、
 一寸法師で亀背の愚楽を、化け物とは、いくらそう思っていても、面《めん》と向かってひどいことを言ったものだが、どこへ出しても生地《きじ》をむきだしの泰軒、徳川などは天下の番頭、したがって愚楽ごときは、番頭の番頭ぐらいにしか思っていないんだ。
 ところが。
 化け物といわれた愚楽老人は?……と見ると。
 ふしぎ!
 いつもお城で、大老《たいろう》など鼻であしらって、傲岸《ごうがん》そのもののような愚楽が、どうしたのか、ちゃんと座蒲団をおり、両手をついて、泰軒のまえに頭をさげている。
「御無沙汰いたしております。御健勝で、何より……」
 ていねいな挨拶です。不思議といえば不思議だが、考えてみれば、これは何もふしぎはないンで。
 人物を知るには人物を要す。大岡様を通じてだいぶ前から相識《しりあい》になっているこの蒲生泰軒を、愚楽は、学問なら、腹なら、まず当今第一の大人物とみて、こころの底から泰軒に絶大な尊敬を払っているんです。
 お城には、話せるやつなんか一人もいないが、いまこの日本で、自分が膝をまじえて語るに足《た》る人物はといえば、まず、南の奉行大岡越前と、この、街の小父《おじ》さん蒲生泰軒と、いずれも、兄《けい》たりがたく弟《てい》たりがたし……この二人よりないと、愚楽老人ひそかに思っている。
 大岡様は、大岡さまで。
 世の中にはいろんな人がいるが、衷心《ちゅうしん》から尊敬に値して、なんでも秘密をうちあけて智恵を借りる畏友《いゆう》は、風来坊泰軒居士と、この湯殿のラスプチン愚楽老人以外にはない――こう考えている。ラスプチンというと、なんだか愚楽も、ひどくエロごのみでいんちき宗教をあやつるように聞こえますが、わが愚楽、そんなところはちっともないんです。ただ、常人のうかがい知ることのできないお城の奥深く、一種の妖気ともいうべきふしぎな威勢、魅力、呪縛力をそなえている点で、たとえてみれば、お湯殿のラスプチン……
 泰軒先生も。
 今の世でいくらか話せるやつは、大岡《おおおか》とこのせむし[#「せむし」に傍点]の化け物――どっちも葵《あおい》の扶持《ふち》をいただく飼い犬だけれど、まアこの二人は、相当なもんだ……ぐらいに思ってる。
 だから、天下に何か困った問題が起こると、深夜コッソリこの三人が集まるんです。
「お呼《よ》びだてして、はなはだ恐縮だが――」
 忠相《ただすけ》はにこにこして泰軒を見た。

       九

 今までだって、何か重大なことが出来《しゅったい》すると、よく夜中に、この越
前へ 次へ
全136ページ中105ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング