ことは知らないから、だまってゴリゴリをつづけている。
みすぼらしい部屋に、ちょっと、暗い沈黙が落ちました。
と、ちょうどその時です。誰やらおもての戸を、ドンドンドンとたたく音。
長屋の者が、また悶着《もんちゃく》でも持ちこんできたか?……と、泰軒先生が眉をあげたとたん。
ヒラリ! そとの路地から家の中へ、生《せい》あるごとく舞いこんできた一枚の紙片《かみきれ》――投げこんだ人はそのまま立ち去るらしく、しのぶ跫音が、いそいで遠ざかってゆく。
泰軒があけてみると、紙には、ただ一|行《ぎょう》……。
「即刻御来駕を待つ――」
誰からの投げ入れ文?
五
「いや、ただいま使いをやりましたから、ほどなくまいりましょう」
忠相《ただすけ》は、こう言って、その下《しも》ぶくれの柔和な顔をほころばせて、客を見た。
桜田門外《さくらだもんがい》の、江戸南町奉行|大岡越前守忠相《おおおかえちぜんのかみただすけ》のお役宅《やくたく》だ。
その奥座敷――。
前の庭は闇にとざされて、植えこみの影が黒く黙している。
が、室内には……。
燭台の灯が明るくみなぎって、磨きぬいた床柱と、刀架けの蝋鞘《ろうざや》と、大岡様《おおおかさま》のひたいとを、てらてらと照らしだす。
「壺の騒ぎは、以前お話のありましたとおり、それとなく看視はしておりますが――」
と言いかけて、忠相《ただすけ》はまた、相手へ眼をやった。
客は。
七、八つの子供ような、小さなからだに、六十あまりの分別くさい顔――それが、いかにもグロテスクな大きく見える顔で、おまけに、これだけは一生の荷の瘤《こぶ》を、背中にしょっているのは、言わずと知れた亀背の愚楽老人である。
千代田の三助……垢《あか》すり旗本《はたもと》。
お庭番という、将軍家直属の隠密《おんみつ》の総帥《そうすい》。
八代吉宗公のかげの最高顧問です。
白髪を、根の太い茶筅《ちゃせん》にゆい、柿《かき》いろの十|徳《とく》を着て、厚い褥《しとね》のうえにチョコナンとすわったところは、さながら、猿芝居の御隠居のようだ。
額部《ひたい》に幾本もの深い皺《しわ》をきざみ、白い長い眉毛の下から、じっと忠相を見つめて、
「上様《うえさま》にも、ひとかたならぬ御心痛でのう」
と、言った。
野太《のぶと》い、よくとおる声だ。もの言うたびに、背中の瘤《こぶ》がヒクヒク動くのは、たしか奇態な動物が、着ものの下にもぐりこんでいるように見える。
「知ってのとおり、日光御修営は、日一日と近づく。柳生はそのこけ[#「こけ」に傍点]猿の壺とやらを手にいれぬかぎり、ほかに金の出どころは絶対にないのじゃから、イヤモウ、一藩をあげて今は必死のありさまじゃ」
「すると、上様は」
と忠相は、ちょっと頭をさげて、
「柳生に御同情をたれ賜うて、柳生のために、それほど御心配になっておらるるので」
「うむ。それもある。剣をもって立つ天下の名家を、かようなことで、むざむざとつぶすにもあたらぬからのう」
「ごもっとも」
「第一、柳生をくるしめるのは、上様の本意ではない。しかるに、このままで押しすすんで、柳生がこけ猿を手に入れて財産を掘りだす前に、日光御造営の日を迎えることになれば、柳生藩一統はくるしさのあまり、何をしでかそうも知れぬ。そこは、剣術はお手のものの連中だし、例の伊賀の暴れン坊とやらをはじめ、手ごわいやつがそろっておることだから……上様の御憂慮なさるのは、この点じゃ」
「なるほど、つまり、天下をさわがしとうない――」
「と言うと、こけ猿の秘める財宝のすべてが、柳生の手にはいるのも、これまた困りものじゃて。いくら日光でも、そうはかからぬのじゃから、あまった金が柳生の手にあっては、こんどはまたそれが、何かと間違いのもとになりやすい――」
「そうたびたび金魚籤《きんぎょくじ》をあててやることも、できますまいからな、ははははは」
「そうじゃ。きまって柳生の金魚ばかり死なすわけにも――あっはっは」
愚楽老人が、全身をゆすぶって笑った時、庭の奥から闇黒《やみ》の中を、こっちへ近づいてくる跫音が……。
六
すね者というと、変につむじまがりか、さもなければ卑屈な人間が多いけれど、この蒲生泰軒先生のように、とてもほがらかに世の中をすねちゃった人物は、ちょっとほかに類がないであろう。
いったい人間には。
ちゃんと家庭をいとなみ、一定の住所をもち、確たる職業につき、それ相応の社会的地位をたもっていこうとする、いわば市民的なおもての生活のかげに。
一面……。
ともすれば無情を感じ、隠遁《いんとん》を好み、一|笠《りゅう》一|杖《じょう》、全国の名所寺社でも行脚して歩いたら、さぞいいだろうと思うような、反世間的な
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