て、おれはモウ死んだのかと急にあわてだしたというんですが、こいつはどうかと思いますね。
 もっとも、現代でも、よく似た話があるもので――ある方が、会社で上役と喧嘩をして、帰りにカフェーで気焔をあげて自宅《うち》へ帰ったら、速達がきていた。あすより出社におよばず……ここにおいてはじめて、ネックになったのかと、そぞろに御自分の首をなでてみたというんですが、ウー、ブルル! 縁起でもない話で、恐れ入ります。
「部屋をけがして、申し訳ない。あとしまつは、よしなに頼む」
 片隅にいすくむ萩乃へ、ジロッと一眼を投げて、左膳、廊下へ出た。
 その腋《わき》の下には、こけ猿の茶壺が、ガッシとかかえこまれて。
 お蓮様の寮で、源三郎も、まごうかたなきこけ猿を手に入れたはず。
 ハテふしぎ!……こけ猿の壺は二個あるのか?

   文殊《もんじゅ》の智恵《ちえ》


       一

「おい、おめえ見たか。おらア先生が、肌脱ぎになって水をくみこむところを見たが、肩なんかお前《めえ》、松の根っこみてえだぞ」
「何言ってやがんでえ。いつも横町のおかめ湯で、先生の背中を流すのは、このおれ様だってことを知らねえのか。先生の背中は、四畳半もあらア」
 それじゃアまるで鯨だ。
「余の者《もん》がこすったんじゃア、蠅《はえ》がすべってるほどにも感じねえというんで、こちとら真っ赤になってフウフウいって流すんだが、イヤまったく巌《いわ》みてえなからだだよ」
「へええ、頭《かしら》の力でも、そうですかねえ。なんだそうでげすナ。小さな長屋の柱のまがったのなんざあ、あの泰軒先生が一つ腰を入れて、グンと押すと、しゃっきり立てなおるってえじゃアげえせんか。いや、なんにしても、えらい御仁《ごじん》があったものだ」
「この長屋の王様だあね。いやもう、とんがり長屋の名物どころじゃアねえ。とんがり長屋の泰軒さまといえア、江戸の名物だ。モウ、とんがり長屋てえのを、泰軒長屋とかえてもいいや」
「泰軒長屋か。ほんとだ。何か事がありゃア、あの先生を押し出しゃあ即座にピタと鎮《しず》まろうてもんだから、豪気《ごうき》なもんよなあ」
「いっそ心強えや。オウ、みんな、泰軒様を大事にしなくっちアいけねえぜ」
 うす陽の街上《まち》に、小さな旋風《つむじかぜ》が起こって、かわいた馬糞の粉が、キリキリと縒《よ》り糸のようにまっすぐに、家の庇《ひさし》ほども高く舞い立っています。
 ここは、あさくさ竜泉寺町《りゅうせんじまち》、とんがり長屋の路地口。
 灰屋《はいや》、夜《よ》かご、祭文語《さいもんがた》り、屑拾い、傘張り、夜鳴きうどんなど、もっとも貧しい人達がこのトンネル長屋にあつまって、いつもその狭い路地には、溝泥《どぶどろ》の臭気と、物のすえたしめっぽいにおいとともに、四六時中尖った空気が充満して、長屋の住民はどれもこれも、みんな貧《ひん》ゆえのけわしい顔――。
 亭主は亭主同士のいがみあい、山の神は井戸端会議の決裂、餓鬼は餓鬼で戦争のようななぐりあい、なんだかんだと夜昼喧嘩口論のたえまはなく、長屋中いつ行ってみても、眼をとがらし、口をとがらし、声とがらしているところから、誰いうとなく、人呼んでとんがり長屋。
 この、名所図会にない浅草名所とんがり長屋に。
 さきごろから、変わり種が一つふえた……というのは。
 あの羅宇直しの作爺さんの家に、蒲生泰軒《がもうたいけん》というたいへんものが、ころげこんでいるんです。
 いつか――。
 チョビ安の預けていった壺の箱をねらって、峰丹波一派の者が、この作爺さんの家へ押しこんだことがあった。そこで、箱のふたをあけてみると、内容《なかみ》は、左膳の計略で壺にはあらで、隅田川《すみだがわ》の水に洗われたまるい河原の石……いずれをいずれと白真弓《しらまゆみ》と、左膳がその石のおもてに一筆ふるってあったのは剣怪ちかごろの大出来だったが、憤慨したのは司馬道場の弟子どもで、かわりに、作爺さんの孫、お美夜ちゃんをさらっていこうとひしめいているところへ、どこからともなくブラリとあらわれて、侍たちを追っ払ってくれたのが、この泰軒居士であった。
 いつだって、どこからともなくフラッと現われるのが、泰軒先生の便利なところなんだ。
 今も今で、こうして長屋の連中が角に立って、ワイワイ先生のうわさをしていると……。
「向うの辻のお地蔵さん、よだれくり進上、おまんじゅ進上――ハッハッハ、どうじゃ、なかなか堂に入ったものじゃろう」
 変な唄歌《うた》が、通りのほうから……。

       二

 たいしたもんですね、泰軒先生の人気たるや。
 そう、遠くのほうから、チョビ安作、親なし千鳥の唄をうたってくる先生の声が、聞こえると、路地にガヤガヤしていた長屋の一同、兵隊さんがさわいでるところへ
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