着ものの裾にかかれば、逃げまどう萩乃は、われとわが力で着物を引いて、あられもない姿になりながら、
「司馬十方斎の娘、手は見せませぬぞっ!」
 白い脛《はぎ》を乱して、懐剣のしのばせてある手文庫《てぶんこ》のほうへ、走り寄ったとたん、
「ウハハハハ、おもしろい芝居だが、ここらで面《つら》をだしたほうがよかろうテ」
 意外、声とともに、部屋の一方の押入れの襖が、内部《なか》からサラリとあいて、
「おいっ! この面が看板だ!」

       三

 いつから、どうしてこの部屋の押入れになぞ、人がひそんでいたのだろう?
「わはは、驚いてやがら」
 おもしろそうに笑いながら、あぐらをかいていた押入れの下段から、ノソリと立ち現われた人物を見ると!
 門之丞も、萩乃も、一眼でゾッとしてしまった。
 家の檐《のき》も三寸さがるといって、夜は、魑魅魍魎《ちみもうりょう》の世界だという。
 その真夜中の鬼気が、ここに凝《こ》ったとでもいうのでしょうか。
 魔のごとき一個の浪人姿――。
 油っ気のない、赤っぽい大たぶさが、死人のような蒼い額部《ひたい》へ、バラリたれさがって、枯れ木のような痩せさらばえた長身だ。
 その右眼は、牡蠣《かき》のようにおちくぼんでいるのが、たださえ、言いようもなく気味がわるいところへ、眉から右の口尻へかけて、えぐったような一本の刀痕は、しじゅう苦笑いしているような、かと思えば泣いているような、一種異様なすごみを、この浪人の表情《かお》に添えている。
 右の袖は、肩さきからブランとたれさがって、白衣に大きく染めぬいたのは、黒地に白で、髑髏《しゃれこうべ》の紋……まことに、この世のものとも思えない立姿。
 人間よりも、縷々《るる》として昇る一線の不吉な煙……。
 パクパクと、乱杭歯《らんぐいば》の口をあけた。声は、しゃがれて、鑢《やすり》で骨を挽《ひ》くような、ふしぎなひびき。
「姐《ねえ》さんも、お侍《さむれ》えも、ヤに眼ばかりパチクリさせてるじゃアねえか」
 と、申しました。
「おらア言い飽きた科白《せりふ》だが、お前《めえ》ッちにゃア初耳だろう。姓は丹下、名は左膳……ウフフフフ、コウさむれえ、えらいところをじゃましてすまなかったが、おらア因果と、この壺てエものを見るてえと、やたらに欲しくなる性分でナ。この壺せえもらやア、用はねえのだ」
たちすくむ門之丞を、左眼でじろりとにらむ。つかつかとこけ猿のほうへ寄る。動くと、魔のような風がさっさっと起こる。この浪人の影には、死神が笑っているに相違ない。
「待てっ!」
 やっと発音機能をとり返したように、必死にさけぶ門之丞の声に、丹下左膳はぶらりと立ちどまった。
 ギュッと顎をねじって、皮肉に笑っている左眼を、門之丞へ向ける。
「ナニ、待てとは――おれがこの壺をもらっていくのが、不承知か」
「いや、不承知というわけではないが……」
 と門之丞、変に気をのまれちまって、しりごむばかりだ。
「あなた様は、どうしてここへ――?」
 横あいから、一歩進み出た萩乃の問いに、左膳はヌラリとそのほうへむきなおって、
「や、これはお嬢様、そうきかれると丹下左膳、こそ泥のごとき真似をいたして、恥じいる次第だが……」
 鍋とかわったほんもののこけ猿は、この道場にあるに相違ないとにらんで、尺取り横町のお藤の家にチョビ安を残し、ひとり出てきた左膳、昼間のうちからこの屋敷へまぎれこみ、灯などをはこぶ宵のくちのどさくさに、早くから、この部屋の押入れにしのんでいたのだ。
「こいつが来たので、出場《でば》を失ったのだ」
 と左膳、一つきりの眼に、みるみる殺気が光って、
「手前《てめえ》、なんだな、今聞いていれば主をはかったな?」
 もの言うたびに、腰の大刀がゆれて、笑うごとくカタカタと鳴ります。

   白い虹《にじ》


       一

「汝《うぬ》ア、まさか助かろうたア思うめえな」
 左膳は、ぐっと顎を突きだして、門之丞を見た。
 その左膳の全身から、眼に見えぬ飛沫《ひまつ》のような剣気が、ほとばしり出て……萩乃は、何かしら危《あぶ》ない感じで、そっと雪洞《ぼんぼり》を、壁ぎわへ置きかえた。
 しばられたように、手足がすくんで、動こうとしても動けぬ門之丞。
 ジッと上眼づかいに、左膳のようすをうかがうと――!
 一つきりない左膳のひだり手の指が、まるで小蛇の這うよう……そろそろ、ソロソロと、右腰にさした豪刀の鯉口へ、かかってゆくではないか。
 萩乃は?
 ピタリと襖に背をはりつけて、手の甲を口に、眼を裂けそうに見ひらいて、立っている。
 殺気は室内に満ちみちて、柱も、畳も、机も、物すべてが、はッはッと荒い呼吸をしているようだ。
 脈動にうつる、ほんの一瞬前の静止。
 来る気だな!――と門之丞が思った時。
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