ているのが、道のはずれに遠く見える。
 中をつないで、七十六|間《けん》のあづま橋。
 真夜中の江戸は、うそのようにヒッソリ閑《かん》としています。折りから満潮《みちしお》とみえまして、ザブーリ、ザブリ、橋|杭《ぐい》を洗う水音のみ、寒々とさえわたって、杭の根に、真白い水の花がくだけ散っている。
 ギイと駕籠の底を軋《きし》ませて、地面におろした先棒が、息杖によりかかって、
「ヘイ。駕籠の御用で――」
 かたわらの暗黒の奥を、すかし見た。
 ノソリと現われたのは、野狩りのかえりででもあろうか、たっつけ袴《ばかま》をはいた若い侍で、
「本郷までやれ」
 顎をしゃくったときに、雲間を流れる月かげに、照らしだされたその顔を見ると、息せききって走ってきたふうで、大たぶさの根がゆるみ、面色|蒼褪《あおざ》めているのは、あながち月の隈取《くまど》りばかりではないらしい。
 新刀《あらみ》試しの辻斬り? よくあるやつです。
 そうではないにしても、あまり気味のよいお客様じゃアないから、先棒《さきぼう》と後棒《あとぼう》は、ちらと眼で、用心の合図をかわしつつ、
「本郷はどちらまでで?」
「妻恋坂《つまこいざか》だ。あそこの司馬道場、存じておるであろう。急いでやれ」
「ナアおい、相棒、妻恋坂だとよ。へっ、いいかげん長丁場《ながちょうば》だなア」
「ねえ、旦那。あっしらア戻り駕籠で、これから巣へけえって、一ぺえやって寝ちまおうと思ってたところなんだ。けえりが半《はん》ちくになりやすから、思い入れはずんでおくんなせえ」
「もう電車はないんですから、つけめですよ。だいぶガソリンもくいますから、七十銭やってください」
 そんなことは言わない。
「賃銀はいくらでもとらせる。酒代《さかて》も存分につかわそうほどに、めちゃくちゃにいそいでくれっ!」
「オーケー、さァ。お乗んなせえ」
 かご屋が駕籠の中へ手を入れて縞の丹波木綿《たんばもめん》の小座蒲団を、ちょいと裏返しする。いい客と見て、これがまァお愛想。特別サービス。
 ギシギシ揺れて、最大急行でスッとんでゆく駕籠のなかで、眼をつぶり、腕をこまぬいた脇本門之丞、心中に考えている。
「あの森かげの小|藪《やぶ》に、玄心斎のおやじと大八めを、スッポかしてすりぬけて来たのだが、今ごろはこのおれを探して、さぞ立い騒いでいるだろうなア」
 たちまちその心の眼に浮かんでくるのは、あの、命も何もいらぬと思うほど恋しい、萩乃さまのおもかげ……。
 妻恋坂――妻恋坂、この名は、門之丞にとって、ゆかりのないものとは思われなかった。
 駕籠はそのつまこい坂をさして、一散に……。

       二

 いま、はるか彼方《かなた》の縁の雨戸に、コトリと、外から人でもさわるような物音がして、萩乃は、びくっと首をあげた。
 眉をよせて、遠くを聴く顔。
 その、艶にうつくしいほおに、遠山の霞《かすみ》をえがいた朱骨絹《しゅぼねきぬ》ぼんぼりの灯が、チロチロと、夢のように這っています。
 片側の襖は、これはちとこの部屋に似つかわしからぬ、荒磯に怒濤のくだける景で、これにはすこしわけがある。いくら女でも、剣家の娘だから、常住、雄渾豪快な気を養わねばならぬといって、亡き父十方斎[#「十方斎」は底本では「十万斎」]が、当時名ある画家に委嘱《いしょく》して、この会心の筆をふるってもらったもの。いわば、故先生の家庭情操教育の一つのあらわれ。
 その父、今やなし、ああ。
 でも、優しい一方とのみみえる萩乃の性質《ひととなり》に、どこか凜《りん》として冒すべからざるところの仄《ほの》見えるのは、この、生前先生ののぞまれたとおりに、勇烈|確乎《かっこ》たる大精神が、この荒磯の襖とともに、その心栄《こころば》えに宿っているのでありましょうか。いや、萩乃ばかりでなく、ふだんはそうは見えなくても、日本婦人はみんな、底の底のほうに、こういった何かを持っているのです。日本の女はすべて、このむかしの武家の女性の、やさしい中にも強いものをなくしちゃアいけない。武士道は決して男の占有物ではないのです。
 ここは、司馬家の奥まった一棟、令嬢萩乃の寝間だ。
 文字どおりの深窓――しかも夜中だから、めったに人のうかがい知ることのできない場所だが、そこは講談の役得で、便利なもの。どこへでもノコノコはいりこんでいく。
 室《へや》の中央に、秋の七草を染《そ》め出した友禅《ゆうぜん》ちりめんの夜のものが、こんもりと高く敷いてあるが、萩乃は床へはいってはいない。
 派手な寝まきの肩もほっそりと隅の経机《きょうづくえ》によって、しきりに何か物思いに沈んでいるようす。
 この真夜中を寝もやらず、かわいい胸になんの屈託か。机上の白い手が、無意識にもてあそぶのは、父の故郷に近い博多《はかた》
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