! 門之丞がおらんぞ、門之丞が!」
六
最初、源三郎の一行が、江戸入りをして品川へ着いた夜、命を奉じて一人駈け抜けて、妻恋坂の道場へ到着の挨拶に走ったのが、この門之丞でした。あの時、彼は、司馬家の重役が来て相当の応対をするどころか、伊賀の柳生源三郎など、そんな者は知らぬと、玄関番が剣もほろろに追いかえしたと火のように激昂して品川の本陣へ立ち帰り、復命したものだったが……。
その後も。
何かにつけ門之丞は、源三郎の身辺近く仕えて、あの、不知火銭をつかんで源三郎が、故先生の御焼香の席へ、押し通ったときも、かれ門之丞、大きな一役をつとめたし、じっさい玄心斎老人、谷大八とともに、源三郎側近の三羽烏だったのに――。
イヤ、人の心ほど、当てにならないものはありません。
恋が思案のほかなら、人のこころも思案のほかです。コロコロコロロと、しょっちゅうころがっているから、それでこころというのだなんて、昔の心学の先生などが、横山町《よこやまちょう》の質屋の路地奥なんかに居《きょ》をかまえて、オホン! とばかり、熊さん八《はっつ》あんや、道楽者の若旦那相手に説いたものですが、まったくそうかもしれません。きょうの味方もあすの敵となる。きょうの敵も、あしたは味方……その人心機微の間に処してゆくところにこそ、人の世に生きていく無限のおもしろみがあるのでございましょう。
しかし、むろん、しじゅう転がっているこころなんてものは、大丈夫の鉄石心、磐石心ではない。
いやどうも、話がわきみちへそれて恐れ入ります。
ところで、この門之丞の心が、それこそチョイト門からころがりでて、とほうもない方向へ走りだし、いまこの丹波の一党に加担するようになったのは、あの十方斎先生のお葬式の日からでした。
と言うのは。
かれ門之丞、あの時主君源三郎にくっついて、棺を安置した奥の間へ踏みこんだのでしたが、とたんに彼は、白の葬衣をまとって上座にさしうつむく萩乃の姿を眼にして、生まれてはじめて、ハッと、電気にうたれたように感じたのだ。
雨にうたれる秋海棠《しゅうかいどう》……なんてのは古い。
激情の暴風雨《あらし》にもまれて、かすかに息づくアマリリス――こいつは、にきびの作文みたいで、いやですネ。
とにかく、なんともいえないんです、萩乃さまの美しさ、いじらしさといったら。
ふたたび、恋は思案のほか……。
脇本門之丞、当年とって二十と六歳。萩乃様を一眼見て、背骨がゾクッと総毛走った拍子に、スーッと恋風をひきこんじまった。
「アア、世の中には、こんな女もいたのか――」
と、それからというものは門之丞、フワアッとしちまって、はたの者がなにをいっても、てんで用が足りない……夢遊状態《むゆうじょうたい》。
この門之丞という青年は、源三郎をすこしみっともなく、色を黒くしたようながらで、剣は相当たって、まんざらでもない男なんです。
朝夕道場に起き伏ししているうちに、チラチラと萩乃を遠見する機会もおおい。層一層、想いはつのる一方で、ついには、
「すまぬことながら、わが君源三郎様さえ亡き者にすれば――」
とんでもない野郎で、ひそかに、こんなことまで思うようになった。いわゆる、魔がさしたというんでしょうなア。
で……源三郎を遠乗りにつれだしたのも、この門之丞。あのお蓮様の寮へ案内したのも、門之丞。あのお蓮様の寮へ案内したのも、丹波らとはかって、あの隣室のひそひそ話を玄心斎、大八に聞かせたのもこの門之丞。
いま、その門之丞は――。
帯《おび》は空解《そらど》け
一
「オイッ、駕籠屋ッ!」
すこしおそいが、大引《おおび》け過ぎのこぼれを拾いに、吉原《なか》へでもかせぎに行こうと、今し本所《ほんじょ》のほうから、吾妻橋の袂へさしかかっていた一|梃《ちょう》の辻駕籠。
こう、闇に声を聞いて、ピタリとまりました。
今なら、コンクリートの遊歩道路に、向島《むこうじま》へいそぐ深夜の自動車がびゅんびゅんうなって、すぐ前はモダンな公園……というところですが、昔あの辺は、殺し場の書割《かきわり》めいた、ちょっとものすごいところで、むこう側《がわ》は、花川戸《はながわと》から山之宿《やまのしゅく》へかけての家々の洩れ灯が、金砂子《きんすなご》のように、チカチカまたたいている。
こっちは、橋のすぐとっつきが、中《なか》の郷《ごう》瓦町《かわらまち》、その前が細川能登守《ほそかわのとのかみ》、松平越前様《まつだいらえちぜんさま》の門、どっちもこれがお下屋敷でございまして、右手、源兵衛橋《げんべえばし》を渡った向うに、黒々と押し黙る木々は、水戸様《みとさま》の同じくお下屋敷。夜眼にも白い海鼠塀《なまこべい》が、何町というほどズウッとつづい
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