ものがある。結び文をはさんだ矢……矢文《やぶみ》なんです。
とたんに。
「ワッハッハ、矢をはなちてまず遠《えん》を定《さだ》む、これすなわち事の初めなり。どうだ、驚いたか」
という、とてつもない胴間《どうま》声が、橋の上から――。
白真弓《しらまゆみ》(発端篇)
ひょうひょうと風のごとく、ねぐらさだめぬ巷の侠豪、蒲生泰軒《がもうたいけん》先生。秩父《ちちぶ》の郷士《ごうし》の出で、豊臣の残党だというから、幕府にとっては、いわば、まア、一つの危険人物だ。ぼうぼうの髪を肩までたらし、若布《わかめ》のような着ものをきて、鬚《ひげ》むくじゃらの顔、丈《たけ》高く、肩幅広く、熊笹《くまざさ》のような胸毛を風にそよがせている。
どこにでも現われ、なんの事件にでも首を突っこむのが、この蒲生泰軒だが、いったいどういうわけでこの先生が、このこけ[#「こけ」に傍点]猿の壺をめぐる渦巻に飛びこんできたのか、そのいきさつは、今のところまだ謎です。
とにかく。
この矢文《やぶみ》には、どういう仔細《しさい》で、そうみんなが顔いろかえて、このうすぎたない一個の壺を手に入れようとあせっているのか、その訳がすっかり書いてある。
で、ここに初めて左膳は、壺の秘密……柳生の埋蔵金のことを知ったのです。命にかけても、この壺をうばい返そうとするのも、無理ではない。今も昔もかわらない、黄金にたいする人間の利念慾欲が、この壺ひとつに凝《こ》っていたのか……。
「ウウム、読めた。さては、そうであったか。あれほど真剣にねらう以上、何か曰《いわ》くがなくてはならぬと思っておったが――イヤ、そうと判ってみればなおのこと、めったにこの壺は渡されねえ」
左膳、左手《ゆんで》に濡れ燕の柄をたたき、一眼をきらめかせて、固く心に決しました。
剣魔《けんま》左膳の胸に、この時から、黄金魔《おうごんま》左膳の芽がふいて――。
「いずれ、また会おう。それまで、壺をはなすなよ。天下の大名物、こけ猿の茶壺、せいぜい大切にいたせ」
言い捨てて、橋上の泰軒、来た時と同じように、ブラリと行ってしまいました。
さて、ここでふたたび物語の遠眼鏡を、お城の奥ふかく向けますと――。
「どうじゃナ、柳生はだいぶ苦しがっておるかの?」
吉宗公、愚楽老人へ御下問です。
この、将軍様とその知恵《ちえ》ぶくろ、愚楽と、いろいろお話のあった結果でしょう。まもなく愚楽は、時の江戸南町奉行|大岡越前守《おおおかえちぜんのかみ》さまと相談をいたしまして、ひょっとすると将軍のお手もとからも、こけ猿をつけねらう新手の別働隊が、繰りだされそうな形勢となった。
が、それはそれとして、
十方斎先生亡き後の、司馬道場には、二つのふしぎな生活がつづいている。
道場の主におさまった気の源三郎と、あくまでもそれを認めず、ルンペンの一団でも押しこんできて、かってに寝泊りしているものと見なしている、お蓮さまと丹波の陰謀組と。
広い屋敷がふたつにわかれて、妙《みょう》なにらみあい。
なかにはさまれた萩乃は、一心に源三郎を思いつづけているのだが、お蓮様も、幾度はねられても源三郎を恋しています。三|竦《すく》みの形。
すると、です。
あの、浪人姿のチョビ安のあとをつけて、こけ猿の木箱が、とんがり長屋の作爺さんの家に隠されたと見た与吉の報告で、丹波の手からはなされた一隊の不知火流《しらぬいりゅう》の門弟どもが、ある日、突如として長屋をおそったのだ。作爺さんをおどしつけて、その木箱をあけて見ると! おどろいた。
中は、水で洗われて円くなった河原の石。
その石の表面に。
虚々実々《きょきょじつじつ》、いずれをいずれと白真弓《しらまゆみ》、と、墨痕《ぼくこん》あざやかに読める。
左膳の字だ。剣怪左膳、はかりごとにおいても相当なもの、見事にいっぱいくわされたんです。
奇態《きたい》なトリオ(発端篇)
業《ごう》を煮やした不知火の弟子達が壺のかわりにとばかり、無態な言いがかりをつけて、お美夜ちゃんをかかえていこうとすると!
ぬッと戸口をふさいで立ったのは。
ふさふさと肩にたらした合総《がっそう》、松の木のような腕ッ節にブラリ下げたのは、一升入りの貧乏徳利で……。
おどろく侍どもをしりめにかけて、押し入って来た蒲生泰軒は、この日からこのとんがり長屋にお神輿《みこし》をすえることになった。長屋に、また一つ名物がふえたのはいいが、この時、部屋の隅にころがっている馬の彫刻に眼をとめて、
「おおっ! 馬を彫らせては、海内随一の名ある作阿弥《さくあみ》どの――!」
と、一眼で作爺さんの素性を看破したのも、この泰軒居士でした。
それから、まもなく。
竹屋の渡しに、舟を呼ぶ声も聞こえない真夜中のこと。
前へ
次へ
全136ページ中85ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング