病間にあてた書院である。やがてそこが、司馬先生の臨終の室となろうとしているのだった。
 病人が光をいとうので、こうして真昼も雨戸をしめ切って、ほのかな灯りが、ちろちろと壁に這っているきりである。中央に、あつい褥《しとね》をしいて、長の大病にやつれた十|方不知火流《ぽうしらぬいりゅう》の剣祖、司馬先生が、わずかに虫の息を通わせて仰臥しているのだった。落ちくぼんだ眼のまわりに、青黒く隈《くま》どりが浮かんでいるのは、これが死相というのであろう。
 本郷妻恋坂に、広い土地をとって、御殿といってもよい壮麗な屋敷であった。剣ひとつで今日の地位を築き、大名旗下を多く弟子にとって、この大きな富を積み、江戸の不知火流として全国にきこえているのが、この司馬先生なのだった。その権力、その富は、大名にも匹敵して、ひろく妻恋坂の付近は、一般の商家などすべて、この道場ひとつで衣食しているありさまであった。だから、妻恋坂の剣術大名という異名があるくらいだった。
 故郷の筑紫にちなんで不知火流と唱え、孤剣をもって斯界《しかい》を征服した司馬先生も、老いの身の病《やまい》には勝てなかった。暗い影のなかに、いまはただ、最後の呼吸を待つばかりであった。
 まくらもとに控えている、茶筅《ちゃせん》あたまに十徳の老人は、医師であろう。詰めかけている人々も、ひっそりとして、一語も発する者もない。
 空気は、こもっている、香と、熱のにおいで、重いのだった。
「お蓮《れん》――」
 と、死に瀕《ひん》した老先生の口が、かすかにうごいた。
 医者が、隣にすわっているお蓮さまに、ちょっと合図した。
「はい――」
 泣きながら袂で眼をおさえて、お蓮さまは、病夫の口もとへ耳を持っていった。
 このお蓮さまは、司馬老先生のお気に入りの腰元だったのが、二、三年前、後妻になおったのである。それにしても、先生のむすめといってもいい若さで、それに、なんという美しい女性であろう!
 明りを受けたお蓮さまの顔は、真珠をあたためたようにかがやいて、眉の剃りあとの青いのも、絵筆で引いたように初々《ういうい》しいのだった。
「もう長いことはない」老先生は、喘《あえ》ぐように、
「まだ来んか。伊賀の――源三郎は、まだ江戸へ着かんか」
「はい。まだでございます。ほんとに、気が気でございません。どう遊ばしたのでございましょう」
 お蓮さまは、あせりぬいている顔つきだった。

       二

「神奈川、程《ほど》ヶ|谷《や》のほうまで、迎いの者を出してありますから、源三郎様のお行列が見えましたら、すぐ飛びかえって注進することになっております。どうぞ御安心遊ばして、お待ちなさいませ」
 まことしやかなお蓮さまの言葉に、老先生は、満足げにうち笑《え》んで、
「源三郎に会うて、萩乃《はぎの》の将来《ゆくすえ》を頼み、この道場をまかせぬうちは、行くところへも行けぬ。もはや品川あたりに、さしかかっておるような気がしてならぬが、テモ遅いことじゃのう」
 と司馬先生は、絶え入るばかりに、はげしく咳《せ》く。
 いまこの室内に詰めているのは、医師をはじめ、侍女、高弟たち、すべてお蓮さま一派の者のみである。老先生と柳生対馬守とのあいだにできたこの婚約を、じゃまして、これだけの財産と道場を若い後妻お蓮様の手に入れ、うまい汁を吸おうという陰謀なのだ。
 剣をとっては十方不知火、独特の刀法に天下を睥睨《へいげい》した司馬先生も、うつくしい婦人のそらなみだには眼が曇って、このお蓮さまの正体を見やぶることができなかった。
 十方不知火の正流は、ここに乗っ奪《と》られようという危機である。
 多勢が四方から、咳《せ》き入る先生をなでるやら、擦《さす》るやら、半暗《はんあん》のひと間《ま》のうちが、ざわざわ騒ぎたったすきに乗《じょう》じて、お蓮さまはするりと脱け出て、廊下に立ちいでた。
 嬋妍《せんけん》たる両鬢《りょうびん》は、秋の蝉《せみ》のつばさである。暗い室内から、ぱっとあかるい午後の光線のなかへ出てきたお蓮様のあでやかさに、出あい頭《がしら》に、まぶしそうに眼をほそめて、そこに立っているのは、代稽古主席《だいげいこしゅせき》、この剣術大名の家老職といわれる峰丹波《みねたんば》だった。
「いかがです、まだ――」
 六尺近い、大兵《だいひょう》の峰丹波である。そう太い声で言って、にっと微笑《わら》った。
 まだ老先生は息を引きとらぬか――という意味だが、さすがに口に出し兼ねて、語尾を消した。
「早くかたづくといいのにねえ」
 とお蓮さまは、うつくしい顔をしかめて、かんざしで髪の根を掻きながら、
「品川から、なんとかいって来た?」
「いや、一行はいまだに本陣に頑張って、威張っておるそうですが――」
「あの、手紙をくわえた首は、だ
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