四

 シンとした大広間で、一座が、じっと見守っていると、愚楽老人の柄杓で手桶から、柳生対馬守の代理、江戸家老、田丸主水正のまえにおかれたギヤマン鉢へ、一ぴきすくい入れられた金魚が、こいつに限って、即座に色を変えて死んでしまったから、サア、御前をもかえりみず、一同、ガヤガヤという騒ぎ……。
「ヤ! 金魚が浮かんだ。金魚籤が、当たった!」
「来年の日光お手入れは柳生どのときまった!」
「伊賀の柳生は、二万三千石の小禄――これはチト重荷じゃのう」
 いならぶ裃《かみしも》の肩さきが、左右に触れ合って、野分のすすきのよう……ザワザワと揺れうごく。
 みんな助かったという顔つきで、ホッとした欣《よろこ》びは、おおいようもなく、その面色にみなぎっているので。
 なぜこの田丸主水正の鉢だけ、金魚が死んだか?
 ナアニ、こいつは死ぬわけだ。この鉢だけ、清水のかわりに、熱湯が入れてあるのだ。
 シンシンとたぎりたって、湯気もあげず、独楽《こま》のように静かに澄みきっている熱湯――しかも、膝さき三尺離して置くのだから、他《た》の一列の冷水の鉢と、まったくおなじに見えて、どうにも区別がつかない。
 指もはいらない熱湯なんだから、これじゃあ金魚だってたまらない。たちまちチリチリと白くあがって、金魚の白茹《しらゆで》ができてしまうわけ。
 この、金魚の死んだ不可思議《ふかしぎ》な現象こそは、東照宮さまの御神託で、その者に修営《なお》してもらいたい……という日光様のお望みなんだそうだが、インチキに使われる金魚こそ、いい災難。
「煮ても焼いても食えねえ、あいつは金魚みたいなやつだ、なんてえことをいうが、冗談じゃアねえ。上には上があらあ」
 と、断末魔の金魚が、苦笑しました。
 二十年目の日光大修理は、こうして、これと思う者の前へ熱湯の鉢を出しておいて、決めたのだった。
 子供だましのようだが、こんな機関《からくり》があろうとは知らないから、田丸主水正は、まっ蒼な顔――。ピタリ、鉢のまえに平伏していると、
「伊賀の名代《みょうだい》、おもてを上げい」
 前へ愚楽老人が来て、着座した。東照宮のおことばになぞらえて、敬称はいっさい用いない。
「はっ」
 と上げた顔へ、突きだされたのは、今まで吉宗公の御前に飾ってあった、お三宝の白羽の矢だ。
「ありがたくお受け召され」
 主水正、ふるえる手で、その白羽の矢を押しいただいた。

       五

「ありがたきしあわせ……」
 主水正、平伏したきり、しばし頭をあげる気力もない。
「柳生か」
 はるかに、御簾《みす》の中から、八代公のお声、
「しからば、明年の日光造営奉行、伊賀藩に申しつけたぞ。名誉に心得ろ」
「ハハッ!」
 もう決まってしまったから、ほかの大名連中、一時に気が強くなって、
「いや、光栄あるお役にお当たりになるとは、おうらやましい限りじゃテ」
「拙者も、ちとあやかりたいもので」
「それがしなどは、先祖から今まで、一度も金魚が死に申さぬ。無念でござる。心中、お察しくだされい」
「わたくしの藩も、なんとかして日光さまのお役に立ちたいと念じながら、遺憾ながら、どうも金魚に嫌われどおしで――」
 うまいことを言っている。
 吉宗公、さっき一同が、あかるみの中で愚楽老人に突っかえされて、皆もぞもぞうしろに隠している菓子箱へ、ジロリ鋭い一瞥をくれて、
「失望するでない。またの折りもあることじゃ」
 一座は、ヒヤリと、肩をすぼめる。
「それにしても、だいぶ御馳走が出ておるのう」
 みんな妙な顔をして、だれもなんともいわない。
「山吹色の砂糖菓子か。なるほど、それだけの菓子があったら、日光御用は、誰にでもつとまるじゃろうからの、余も安堵《あんど》いたした」
「へへッ」
 皮肉をのこして、そのままスッとお立ちです。諸侯連、控えの間へさがると現金なもので、
「伊達侯、首がすっと伸びたではないか」
「わっはっはっは、それはそうと柳生の御家老、御愁傷なことで」
 みんな悔《くや》みをいいにくる。
「しかし、おかげでわれわれは助かった。柳生様々じゃ」
 いろんな声にとりまかれながら、色蒼ざめて千代田城を退出した田丸主水正、駕籠の揺れも重くやがてたちかえったのは、そのころ、麻布本村町《あざぶほんむらちょう》、林念寺前《りんねんじまえ》にあった柳生の上屋敷。
「お帰り――イ」
 という若党|儀作《ぎさく》の声も、うつろに聞いて、ふかい思案に沈んでいた主水正、あわてふためいて用人部屋へ駈けあがるが早いか、
「おい、おいっ! だれかおらぬか。飛脚じゃ! お国おもてへ、急飛脚じゃ!」
 折《お》れよとばかり手をたたいて、破《わ》れ鐘《がね》のような声で叫んだ。

   恋《こい》不知火《しらぬい》


       一


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