なって、左膳が拾いあげてみると、達者な筆で、
「ありがたく頂戴《ちょうだい》」
 とある。

       四

 橋の下の小屋|住居《ずまい》に[#「小屋|住居《ずまい》に」は底本では「小屋住|居《ずまい》に」]、朝夕眼をはなしたことのない壺。
 それが、こうして中身が変わっていようとは!
 いつ、何者にぬすまれたのか、左膳にも、チョビ安にも、すこしの心当りもありません。
 左膳とチョビ安、四つの眼、いや三つの眼で見はっていた壺が、いつのまにやら鍋に化けて、しかも、ありがたく頂戴《ちょうだい》と嘲笑的《ちょうしょうてき》な一筆。
 丹下左膳不覚といえば、これほどの不覚はないが、がんらいが剣腕一方のかれ左膳、いかなる手品師の早業か、すきを狙われては、どうにも防ぎようがなかったらしく。
 こけ猿の茶壺は、とうの昔に左膳をはなれて、何者かの手に渡っていたのだ。
 では、どこへ行ったか。
「ウーム、わからねえ、どう考えてもふしぎだ……」
 一眼をとじ、沈痛にうめいている左膳を、チョビ安は唖然《あぜん》と見上げて、
「ねえ、父上。どうして盗まれたろう。あたい、いくら考えてもわからないよ」
 父上……と聞いて、壺よりも、久方《ひさかた》ぶりにめぐりあった左膳その人に、多大の関心を持っている櫛巻きお藤は、そそくさと膝できざみ出ながら、
「あらっ、丹下の殿様、これお前さんの子供なのかい。まあ! いつのまに、こんな大きな子供が!」
 その時まで、発音ということを忘れたように、ただ眼ばかりキョロつかせていた柳生の侍達、一度に大声にしゃべりだした。
「やられたっ! 見事この独眼竜《どくがんりゅう》に、一杯くわされたぞ」
「かつがれましたなア。鍋を抱えて逃げているとも知らず、懸命にここまで追いつめたが……」
「人をなべ[#「なべ」に傍点]やがって――」
 いやな洒落《しゃれ》です。
「かくまでわれわれを愚弄いたすとは! もう容赦はならぬっ」
 さけぶと同時に一人は、またチョビ安を押しころがして、その胸もとに斬っ尖《さき》を突きつけ、左膳へ向かい、
「さ! 壺の所在《ありか》を言えっ」
 蜂の巣をつついたような騒ぎのなかで、じっと眼をつぶっている丹下左膳は、甘い女の香が鼻をなでて……お藤が、そっと寄り添っていることを知った。
 すると、高大之進は、だまって、さっさと土間へおりてしまった。
「この仁《じん》の驚きは、われわれ以上だよ。盗まれたことを知らずにいたのだ。責めても、むだだ。さあ、ひきあげよう」
「しかし、謀《はか》られたとしたら……」
「いや、そうでない。何者かが壺を盗み出したことは、この仁の顔色を見てわかる。出なおし、出なおし」
 そう笑って高大之進は櫛巻きお藤へ、
「いや、騒がせたナ」
 ブラリと尺取り横町を出ていった。他の連中も、しかたなしに、左膳とお藤とチョビ安を、かわるがわるにらみつけておいて、ガヤガヤ立ち去って行く。
 急に、しんとしたなかに取り残された三人……鍋を前に、深い無言がつづいています。

   扇子《せんす》の虫《むし》


       一

 顔を見合わせて、吐息をつくばかりです。
 さア、こうなってみると、こけ猿の茶壺は、いまどこにあるのか、てんで見当もつかない。
 茶壺というと……今の人の考えでは、たかが茶を入れておく容器《いれもの》で、道具の一つにすぎませんが、昔は、この茶壺にたいする一般の考えが、非常にちがっていて、まず、諸道具の上席におかれるべきもの、ことに、大名の茶壺や、将軍家の献上茶壺となると、それはそれはたいへんに羽振りをきかせたもので、禄高に応じて、その人と同じ待遇を受けたものです。
 ことに、相阿弥《そうあみ》の蔵帳《くらちょう》、一名、名物帳《めいぶつちょう》にまでのっている柳生家の宝物こけ猿の茶壺。
 単に茶壺としても、それが紛失したとなると、これだけの大騒動《おおそうどう》が持ちあがるになんのふしぎもないわけだが――。
 そればかりではない。
 柳生の先祖が、他日の用にと、しこたま蓄財した現金をひそかにある地点へ埋めた、その秘宝《ひほう》の所在を書きとめた地図が、このこけ猿の茶壺のどこかに封じこんであるのですから、いま、この宝探しのような、大旋風がまきおこっているのも、理の当然です。
 左膳、チョビ安、お藤の三人は、無言の眼をかわして、考えこんでいましたが、そのうちに左膳、指を折って数えだした。
「一つ、壺を奪還せんとする柳生の連中――これは、司馬の道場へ乗りこんでおる源三郎一味と、捜索の手助けに伊賀から出て来た高大之進の一団と……今夜まいったのは、この高《こう》の一隊だが、彼奴《きゃつ》らは、道場と、林念寺前《りんねんじまえ》の柳生の上屋敷の間に連絡をとって、血みどろになって探しておる」
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