う言葉もなく、うなだれているばかり、はだけた襟の白さが、この場の爆発的な空気に、一|抹《まつ》の色を添えて。
「返答はどうしたっ! 返答はっ」
もう、完全に左膳を隅へ追いつめたのですから、伊賀っぽう、めっぽう気が荒いんです。
一人がそうどなった。
その尾について、ほかのひとりが、
「夜が明けるぞ、夜が」
「下手《へた》の考え休むに似たり。ええ面倒だ。小僧の首をもらってしまえ」
たちさわぐ部下を制した高大之進覆面の眼を、得意げに輝かせて、
「なかなか御決心がつかぬとみえますな。よろしい、拙者がいま、十まで数を数えますから、その間に御返事をねがいたい」
と、チョビ安をおさえつけている侍へ向かい、
「よいか、おれが十まで数えても、うんともすんともいわなかったら、気の毒だが、その子供の首をひと刺しにナ……」
「心得ました。十のお声と同時にブツリ刺し通してもかまわないのですね」
「そうだ。十の声を聞いたら、やっちまえ」
シインとした中で、やおら左膳に向きなおった高大之進は、きりっとした声で、数えはじめました。太く、低く、静かに……。
一、二、三、四――五――。
ゆっくり間《ま》をおいて、
「六……」
誰かが、エヘン! と、咳ばらいをした。
「七――」
左膳の焦慮《しょうりょ》は眼に見えてきた。娘《むすめ》一人に婿八人、各方面から、この壺をねらう者の多いなかに、片腕の孤剣を持って、よくここまでまもり通してきたものを、今むざむざ……。
と、言って。
ためらったが最後、かわいいチョビ安の命はないもの。
右せんか、左せんか。左膳の額部《ひたい》に、苦悶の脂汗が――。
「八――九……」
「待った!」
くるしい左膳の声だ。
「しかたがねえ。負けた」
静かに、壺を畳へ置いて、高大之進のほうへ押しやりました。
三
「ウム、神妙な――」
微笑した大之進、それでも、めったに油断をみせません。片手に抜刀を構えたまま、じっと上眼づかいに、左膳をみつめて。
ソロリ、ソロリ……片手で風呂敷をときにかかった。
一座の眼は、その指先に集まっている。
鬱金《うこん》の風呂敷が、パラリと落ちると、時代で黒ずんだ桐の木箱。
大之進は、ピタとその蓋に手をおいて、
「おのおの方ッ、こけ猿の茶壺でござるぞ。われわれの手で取りもどしたは、真に痛快事。これで、気を負《お》い剣を帯して、江戸表まで出てまいった甲斐があったと申すもの」
一人が、四角ばって、すわりなおした。
「殿の秘命をはたし得て、御同様、祝着至極《しゅうちゃくしごく》……」
「この問題も、これにて解決。殿のお喜びようが眼に見えるようでござるワ」
「さっそく、明朝江戸を発足いたし……」
謹んで、壺の蓋をおさえていた高大之進は、その間も、左膳から眼をはなさずに、
「当方にとってこそ、絶大なる価値を有する壺、だが、其許《そこもと》には、なんの用もないはず。おだやかにお渡しくだすって、千万かたじけない」
左膳、女物の派手《はで》な長襦袢《ながじゅばん》からのぞいている、痩せっこけた胡坐《あぐら》の毛脛を、ガリガリ掻いて、
「ウフフフ、あんまりおだやかでもなかったぜ。今になって礼を言われりゃア世話アねえや」
チョビ安もゆるされて、ピョッコリ起きあがって、ちょこなんとすわっています。
お藤も手を放されて、居住いをなおすなかに、つと声をあらためた高大之進、
「役目のおもて、大之進、お茶壺拝見」
おごそかに言いながら、ピョイと蓋をはじいた。
蓋は軽い桐材。四角い紙のように、ピョンと飛んで畳を打つ。
のぞきこんだ大之進といっしょに部屋中の眼が箱の中へ――
赤い絹紐であんだすがり[#「すがり」に傍点]の網に包まれて、柳生|名物《めいぶつ》の茶壺、耳こけ猿が、ピッタリとその神秘の口を閉ざし、黒く黙々とすわっている……のが、一瞬間、みなの眼に見えた。
だが。
錯覚《さっかく》。そうと思いこんだ眼に、一時それが実在のごとく閃めいただけで、恋しなつかしのこけ[#「こけ」に傍点]猿の茶壺! と、思いきや!
鍋なんだ、中にはいっているのは。
破《や》れ鍋《なべ》が一つ、箱の底にゴロッと転がっているんです。
驚きも、声の出るのはまだいい。
高大之進も、左膳も、室内の一同、まじまじと箱の中をのぞいた眼を、互いの顔へパチクリかわしているだけで、なんの言葉もありません。
そうでしょう、大きな鍋が、鉄のつるを立てて、箱のなかにどっかと腰をすえているところは、真っ黒な醜男《ぶおとこ》が勝ちほこった皮肉の笑いを笑っているようで――。
「ウム!」
「フーム」
左膳と大之進が、いっしょにためいきをついたとき、鍋に、一枚の紙片のはいっているのが眼についた。驚きのあまり敵も味方もなく
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