それを!……かく言う拙者を作阿弥《さくあみ》と看破さるるとは、貴殿は、容易ならざる眼力の持主――」
「なんの、なんの! ただ、ごらんのとおり雨にうたれ、風に追われて、雲の下を住居《すまい》といたす者、チラリホラリと、何やかや、この耳に聞きこんでおりますだけのこと。当時日本に二人とない彫刻の名工に、作阿弥という御仁《ごじん》があったが、いつからともなく遁世《とんせい》なされて、そのもっとも得意とする馬の木彫りも、もはや見られずなったとは、ま、誰でも知っておるところで……」
 作爺さんは、仮装を見破られた人のように、ゲッソリしょげこんでしまったが。
 事実、このとんがり長屋の住人、羅宇《らう》なおしの作爺とは、世を忌み嫌ってのいつわりの姿で、以前は加州金沢の藩士だったのが、彫刻にいそしんで両刀を捨て、江戸に出て工人の群れに入り、ことに、馬の木彫《もくちょう》に古今無双《ここんむそう》の名を得て、馬の作阿弥《さくあみ》か、作阿弥《さくあみ》の馬かとうたわれた名匠。
「ふうむ。この小さな馬が、いまにも土煙を立て、鬣《たてがみ》を振って、走り出しそうに見えるテ」
 ほれぼれと、長いことその馬の彫り物を、手に眺めていた泰軒は、
「して、その作阿弥殿《さくあみどの》がいかなる仔細にて、この陋巷に、この困窮の御境涯――」
 問われたときに、作阿弥は暗然《あんぜん》と腕をこまぬき、
「高潔の士とお見受け申した。お話し申そう」
 語り出したところでは……。
 かれには、たった一人の娘があったが、作阿弥の弟子の、将来ある工人を婿にえらび、一、二年ほど夫婦となって、このお美夜ちゃんを産んだのち、その良人《おっと》が惜しまれる腕を残して早世《そうせい》するとともに、子供だいじに後家をたてとおすべきだと、涙とともに一心に説いた父、作阿弥の言をしりぞけて、自らすすんで某屋敷へ腰元にあがり、色仕掛《いろじかけ》で主人に取り入り、後には、そこの後添《のちぞ》えとまでなおったが、近ごろ噂《うわさ》にきけば、その老夫もまた世を去って、ふたたび未亡人の身の上だというが……それやこれやで、おもしろからぬ世を捨てた父作阿弥と、ひとり娘のお美夜ちゃんとの隠れすむこのとんがり長屋へは、もう何年にも、足一つ向けたことのない気の強さ――。
 作阿弥と、蒲生泰軒とは、初対面から二人の間に強くひき合い、結びつける、眼に見えない糸があるかのよう……まもなく二人は、十年の知己のごとく、肝胆相照らし、この、疑問のこけ猿の茶壺を中心に、いま、江戸の奥底に大いなる渦を捲き起こそうとしている事件について、夜のふけるまで語りあったが――
 いずくを家とも定めぬ泰軒、どこにいてもさしつかえない身分なので、この日から彼、乞われるままにこのとんがり長屋の作阿弥の家へ、ころげこむことになったのです。
 えらい居候《いそうろう》……とんがり長屋に、もう一つ名物がふえた。
 その夜、泰軒は、お美夜ちゃんの手をひいてニコニコ顔で、長屋じゅうの熊公、八公のもとへ、引越蕎麦《ひっこしそば》をくばってあるきました。

   子《こ》を取《と》ろ子取《こと》ろ


       一

 先《せん》の業《わざ》とは、相手が行動を起こそうとするその鼻に、一秒先立って、こっちからほどこす業《わざ》。
 後《ご》の先の業とは……?
 相手が動きに移ろうとし、または移りかけた時に、当方からほどこす業《わざ》で、先方の出頭《でがしら》を撃つ出会面《であいめん》、出小手《でこて》、押《おさ》え籠手《こて》、払《はら》い籠手《こて》。
 先《せん》々の先の業――とは。
 先の業のもう一つさきで、相手が業をしかけようとするところを、こっちが先を越して動こうとする、そのもう一つさきを、相手のほうから業をほどこす、これが先々の先の業。
 竹屋の渡しに、舟を呼ぶ声も聞こえない。真夜中近く、両側の家がピッタリ大戸をおろした、浅草材木町《あさくさざいもくちょう》の通りを、駒形のほうへと、追いつ追われつして行く黒影、五つ、六つ……七つ。
 近くの空まで、雨がきているらしい。闇黒《やみ》に、何やらシットリとしめった空気が流れている。鎬《しのぎ》から棟《むね》、目釘《めくぎ》へかけて、生温かい血でぬらぬらする大刀濡れ燕を、枯れ細った左手に構えた左膳は、
「くせの悪いこの濡れ燕の斬っ尖《さき》どこへとんでいくか知れねえから、てめえらたちっ、そのつもりでこいよっ」
 しゃがれた声で、ひくく叫んだ。
 髑髏《どくろ》の紋が、夜目にもハッキリ浮かんで、帯のゆるんだ裾前から、女物の派手な下着をだらりと見せた丹下左膳、足《そく》を割って、何かを踏まえているのは、これこそは、こけ猿の茶壺に相違ない風呂敷の木箱。
 そしてその足もとには、例のチョビ安がうずくまってい
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