こうとする後ろから、また、われっかえるような泰軒の笑い声がひびいて、
「名乗らんでも、おれにはちゃんとわかっているぞ。道場へ帰ったら、丹波にそう言え。長屋にあります箱は、偽物でした、とナ」
「道場? どこの道場?」
「丹波とは、何者のことか」
と、そう四人は、口ぐちにしらをきったが、本郷の道場の者と見破られた以上、このうえどじを踏まないようにと、連れ立って足ばやに、路地《ろじ》を出ながら、
「おどろいたな。あの仁王《におう》のようなやつが、おれたちが司馬道場の者と知っているとは――」
「あいつは、そもそも何者であろう」
「虚々実々《きょきょじつじつ》、いずれをまことと白真弓《しらまゆみ》……か、うまく一ぱいくわされたぞ」
「かの与吉と申す町人、われわれにこんな恥をかかせやがって、眼にものみせてくれるぞ」
空威張《からいば》り――肩で風を切って、とんがり長屋の路地を出てゆく。もうこうなると、長屋の連中は強気《つよき》一点ばりで、
「おう、どうでえ。八や、あの鬼みてえな乞食先生が、フラリとはいっていったら、めだか四匹逃げ出したぜ」
「おうい、おっかア、波の花を持ってきなよ。あの四人のさんぴんのうしろから、ばらばらっと撒いてやれ」
振りかえってにらみつけると、どっと湧く笑い。四人は逃げるように、妻恋坂をさして立ち去りましたが、さて、そのあと。
せまっくるしい作爺さんの家では、きちんとすわりなおしたお爺《じい》さんが、お美夜ちゃんをそばへひきつけて、
「どなたかは存じませぬが――」
大胡坐《おおあぐら》の泰軒先生へ向かって、初対面の挨拶をはじめていた。
三
「どなたかは存じませぬが――」
と言いかけた作爺さんの言葉を、泰軒居士は、ムンズとひったくるように、
「いや、おれがどなたかは、このおれも御存じないような始末でナ……かたっくるしい挨拶は、ぬき、ぬき――」
大声に笑われて、作爺さんは眼をパチクリ……鬚《ひげ》むくじゃらの泰軒の顔におどろいて、お美夜ちゃんは、そっと作爺さんのかげへかくれましたが。
何を見たものか泰軒、突如、戸口へ向かって濁声《だみごえ》をはりあげたものだ。
「見世物じゃないっ! 何を見とるかっ!」
権幕におどろいて、おもてからのぞいていた長屋の連中、
「突《すき》っ腹《ぱら》に聞くと、眼のまわりそうな声だ」
「おっそろしい人間じゃあねえか。侍ともなんとも、得体のしれぬ化け物だ」
口々にささやきながら、溝板《どぶいた》を鳴らして逃げちっていくと、遠のく足音を聞きすました泰軒は、やおら形をあらため、
「卒爾《そつじ》ながら、おたずね申す」
いやに他所《よそ》行きの声です。
「それなる馬の彫り物は、どなたのお作でござるかな?」
と指さした部屋の隅には、木片に彫った小さな馬の像が、ころがっているんです。
そばに、うすよごれた布に、大小数種の鑿《のみ》、小刀などがひろげてあり、彫った木屑がちらかっているのは、さっきあの四人が押しこんで来る前まで、作爺さん、この仕事をしていたらしいので。
いつかも、あのチョビ安が、突然里帰りの形でこの石ころの入った木箱を持ちこんできた時、作爺さんは部屋じゅう木屑だらけにして、何か鉋《かんな》をかけていましたが、あのときもひどくあわてて、その鉋屑《かんなくず》や木片を押入れへ投げこんだように、今も、この泰軒の言葉に大いに狼狽《ろうばい》した作爺さんは、
「イエ、ナニ、お眼にとまって恐れ入りますが、これが、まあ、私の道楽なので、商売に出ない日は、こうして木片《こっぱ》を刻んでは、おもちゃにしております。お恥ずかしい次第で」
と聞いた泰軒、何を思ったかやにわに手を伸ばし、その小さな馬の像を拾いあげるや、きちんとすわりなおして、しばし黙々とながめていたが、ややあって、
「ウーム! 御貴殿のお作でござるか。さぞかし、ひそかに会心のお作……」
うなりだしてしまった。
その、キラリとあげた泰軒の眼を受けて、こんどは作爺さんが、おそろしく驚いたようす。
「や! それを傑作とごらんになるところを見ると――」
じっと泰軒をみつめて、作爺さん、小首をひねり、
「ウーム……」
いっしょにうなっている。
まったく、現代《いま》で申せば、民芸とでもいうのでしょうか。稚拙《ちせつ》がおもしろみの木彫りとしか、素人《しろうと》の眼にうつらない。
と! いきなり泰軒が、大声をはりあげて、
「おおっ! 馬を彫らせては、海内《かいだい》随一の名ある作阿弥殿《さくあみどの》――」
叫ぶように言って、作爺さんの顔を、穴のあくほど……。
四
作爺さんの驚きは、言語に絶した。
しばらくは、口もきけなかったが、やがてのことに、深いためいきとともに、
「どうして
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