のあまり、会ってどうしようという考えもなく、ふらふらと居間を立ち出でた萩乃が夢遊病者《むゆうびょうしゃ》のようにこの廊下にさしかかると、壁にもつれる人影――何心なくたちどまった耳に、今までの二人の話が、すっかり聞こえてしまったので。
「どうぞ、源三郎さま、お母様のおっしゃるとおりになすって……あたくしは、どこへでもまいります。もう、もう、一人で――」
泣きたおれようとする萩乃を、源三郎は、片手にガッシと抱きとめて、
「いかがなものでござる、母上。似合いの夫婦《めおと》で……ははははは」
ニヤッと、はじめて、魔のようなほほえみ。
振り返ったお蓮様は、トンと一つ、踊りのような足踏みをして、
「うるさいねえ、ほんとに。かってにするがいい」
だが、その眼はキッと萩乃をにらんで、おそろしい嫉妬に、火のよう……。
開《あ》けてくやしき
一
「お手入れか。作爺さんが何をしたというんだ」
「あれはお前、ああ見えたって、押しこみ、詐《かた》り、土蔵《むすめ》破りのたいした仕事師なんだとよ」
作爺さん、えらいことになってしまった――。
「なにを言やアがる。あの作爺さんにかぎって、そんなことのあるはずのもんじゃあねえ。でえいち乗りこんで来ている侍達《さんぴんたち》が、おれの眼じゃあ、八町堀じゃあねえとにらんだ」
「それにしても、まっぴるま長屋へ押しこんで来て、ああやって爺さんを脅かしつけているからにゃア、お役筋の絡んでいる者に相違ねえ」
「いや、待て。わからねえぞ。なんだか知らねえが、預《あず》かっている物を出せとか言って、大声をあげているぜ」
とんがり長屋の入口は、わいわいいう人|集《だか》り……。
残ったにしては根強い暑さかな――洒落《しゃれ》たことを言ったもので、まったく、江戸の残暑ときちゃア、読んで字のごとく残った暑さにしては、根が深い。
いつまでも、つづく、
今日も朝から、赭銅色《しゃくどういろ》の太陽がカッと照りつけて、人の心を吸いこみそうな青空――。
街には、一面に土陽炎《つちかげろう》がもえて、さなきだにごみごみしたとんがり長屋のあたりは、脂汗のにじむ暑さです。
その汗を、額いっぱいに浮きださせて、
「いやいや、その方の宅に、こけ猿の茶壺をかくしてあることを、突きとめてまいったのじゃ」
わめきたっている侍がある。
長屋の真ん中、作爺さんの住居です。
さっきからこのさわぎなので、長屋は、奥の紙屑拾いのおかみさんが双生児《ふたご》を産んだ時以来の大騒動。でも、みんなこわいものだから、遠く長屋の入口にかたまって、中へはいってこない。
一|間《ま》っきり作爺さんの家に、あがりこんでどなっている武士は、四人――どこの家中か、浪人か、服装を見ただけではわかりません。
昼間だけに、さすがに覆面はしていないが、身もとをつつんできていることは必定。
狭いところに大の男が、四人も立ちはだかっているのだから、身動きもならない。
お美夜ちゃんはすっかりおびえて隅の壁にはりついたような恰好。円《つぶ》らな眼を恐怖に見開いて、どうなることかと、侍たちを見上げています……。
作爺さんは、すこしもあわてない。
押入れの前にぴったりすわって、
「へい、ある筋《すじ》より頼まれまして、風呂敷に包んだ木箱を一つ、預《あず》かっておりますが、何がはいっておるかは、この爺いはすこしも存じませんので」
「うむ、それじゃ。その箱を出せと申しておるのに」
「いや、手前はあけて見たわけではござりませぬが、こう、手に持ちまして手|応《ごた》えが、どうも、おたずねの茶壺などとは思えませぬので」
「だまれ。だまれ、汝《なんじ》のところに、こけ猿の茶壺のまいっておることは、かの、チョビ安とやら申す小僧のあとをつけた者があって、たしかに木箱を持ってここへはいるところを見届けたのだ。当方には、ちゃんとわかっておるのだぞ」
二
あの日、左膳のもとから壺を運んで来たチョビ安を、ここまで尾行《びこう》して来た者があったと見えて――。
そいつは、言わずと知れた、れいのつづみの与吉にきまっているのだがサテ、その与の公の知らせをうけて、こうしてきょう乗りこんで来たこの四人は?
林念寺前《りんねんじまえ》の柳生の上屋敷に陣取っている、高大之進一派の者か?
それとも、源三郎とともに本郷の道場にいすわっている、同じ柳生の、安積玄心斎の手の内か?
あるいは……。
その道場の陰謀組、峰丹波の腹心か。
ことによると――愚楽老人が八代公との相談から、そっと大岡様へ耳こすりした、その方面から来た侍か……?
こうなると、さっぱりわかりません。
だいたい、あのつづみの与吉なる兄《にい》さんは、あっちへべったり、こっちへベッ
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