つまり、この講談は、その前年からはじまっているのです。
 来年の日光を誰に持って行こうかという、上様の御下問に対して、伊賀の柳生へ――と愚楽が答えたから、吉宗公におかせられては、ふしぎそうなお顔。
「対馬は剣術つかいじゃアねえか。人斬りはうまかろうが、金なぞあるめえ」
 とおっしゃった。吉宗は相手が愚楽老人だと、上機嫌に、こんな伝法な口をきいたもんです。
「ところが、大あり、おおあり名古屋ですから、まあ、一度、申しつけてごらんなさい」
 と老人、ちゃんちゃんこの袖をまくって――オット、ちゃんちゃんこに袖はない――将軍様の肩をトントン揉みながら、
「先祖がしこたま溜めこんで――いかがです、すこし強すぎますか」
「いやよい心地じゃ。先祖と申せば、お前、あの柳生一刀流の……」
「へえ。うんとこさ金を作って、まさかの用に、どっかに隠してあるんですよ」
「そうか。そいつは危険じゃ。すっかり吐き出させねばならぬ。よいこと探ったの」
「地獄耳でさあ。じゃあ、伊賀に――」
「うむ、よきにはからえ」
 と、おっしゃった。これで、大名たちが桑原桑原とハラハラしている来年の日光おなおしが、いよいよ柳生対馬守に落ちることにきまった。なんでも、よきにはからえ……これが命令だ。都合のいい言葉があったもので。はからえられたほうこそ災難です。
 吉宗、最高政策中の最高政策、もっとも機密を要する政談は、いつも必ず、この愚楽老人ひとりを相手に、こうしてお風呂場で相談し、決定したのだ。
 裸の八代将軍をゴシゴシやりながら、なんによらず、幕府最高の密議を練る愚楽老人――この、こどもみたいなお風呂番のまえには、大老も、若年寄もあたまがあがらない。
 この千代田湯の怪人は、そもそも何もの?……垢《あか》すり旗下《はたもと》の名で隠然権勢を張る、非常な学者で、また人格者でした。

   金魚籤《きんぎょくじ》


       一

 慶長《けいちょう》五年九月十五日、東西二十万の大軍、美濃国《みののくに》不破郡《ふわぐん》関《せき》ヶ|原《はら》に対陣した。ここまでは、どの歴史の本にも、書いてある。
 家康は、桃配《ももくばり》というところに陣を敷いていたが、野天風呂を命じて、ふろ桶から首だけ浮かべて幕僚に策を授けた。これは、ほんとの秘史で、どの本にも書いてないけれども、この、大将の敵を前にした泰然《たいぜん》たる入浴ぶりに、全軍の士気大いにあがり、それがひいては勝敗を決定して、徳川の礎を据えたと言われている。
 ところで、そのとき、パラパラと雨が落ちてきた。すると幕下のひとりに、小気《こき》のきいた奴があって、その湯にはいっている家康公に傘をさしかけながら、背中を流した。
 その落ちついたありさまが、ひどく家康の気にいって、そいつを旗下《はたもと》にとり立てて、世々代々風呂番をお命じになった。
 これが初代の愚楽で、それ以来、旗下八万騎の一人として、相伝えて将軍さまの垢《あか》をながしてきた。人呼んで垢すり旗下。
 だから、愚楽老人、ただの風呂番ではない。真っぱだかの人間吉宗と、ふたりっきり、ほんとうに膝つき合わせて、なんでも談合できるのは、愚楽ひとりだった。
 さて……。
 今日は、いよいよ来年の日光修理の大役が、指名される日である。
 早朝|卯《う》の上刻《じょうこく》から、お呼び寄せの大太鼓が、金線を溶かしたお城の空気をふるわせて、トーッ! トウトーットッとお櫓《やぐら》高く――。
 参覲《さんきん》交代で江戸に在勤中の大名は、自身で、国詰め中のものは、代りに江戸家老が、おのおの格式を見せた供ぞろい美々《びび》しく、大手《おおて》から下馬先と、ぞくぞく登城をする。
 御本丸。柳の間は、たちまち、長袴に裃《かみしも》でいっぱい、白髪、若いの、肥ったの、痩せたの……。
 内藤豊後守《ないとうぶんごのかみ》は、狆《ちん》のような顔をキョトキョトさせ、小笠原左衛門佐《おがさわらさえもんのすけ》は、腹でも痛いのか、渋い面だ。しきりに咳をする松平三河守、癖でやたらに爪をかんでいるのが、彦根侯《ひこねこう》、井伊掃部頭《いいかもんのかみ》――子孫が桜田の雪に首を落とそうなどとは、ゆめにも知らないで。
 正面、御簾《みす》をたらした吉宗公のお座席のまえに、三宝にのせた白羽の矢が一本、飾ってある。
 あの矢が誰に落ちるかと、一同、安きこころもない。
「イヤどうも、百姓一統不景気で――」
「拙者の藩などは、わらじに塩をつけて食っておるありさま、窮状、御同情にあずかりたい」
 殿様連、ここを先途《せんど》と貧乏くらべだ。
 当てられてはたまらないから、いかに貧的《ひんてき》な顔をしようかと、苦心|惨澹《さんたん》。
「あいや、伊達《だて》侯……先刻よりお見受けするところ、御貴殿、首を
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