んの壺はどこにありますのか、とんと行方が知れませぬ由――」
 愚楽の地獄耳といって、巷の出来事は、煙草屋の看板娘の情事《いろごと》から、横町の犬の喧嘩まで、そっくりこの愚楽老人へつつぬけなのだから、この、こけ猿の騒ぎにこんなに通じているのも、なんのふしぎもないけれども、まだ丹下左膳なる怪物のことは、さすがの愚楽老人も知らないようす。
「ほかに、どういう筋から壺をねらっておるのかな?」
「本郷の道場の峰丹波、および、お蓮と申す若後家の一派と――それよりも、何者かこの壺をにぎって、離さぬものがありますので……日光御造営の日は刻々近づいてまいりますし、伊賀の奴ばらは気が気でないらしく、これは大きな騒ぎになって、お膝もとを乱さねばよいがと――」
「その金がのうては、伊賀も日光にさしつかえて、柳生藩そのものが自滅しても追いつかぬであろう。名家のあとを絶やすのは、余の本意ではない」
 お縁の天井《てんじょう》を仰いで、長大息した吉宗のことばに、愚楽老人は、わが意を得たりといったふうに、にやりと微笑し、
「すると、私の手において別働隊を組織し、柳生に加勢して、壺を奪還いたしますかな?」

       二

 爪は切り終わっていました。
 八代様は、静かに立って居間《いま》へはいりながら、
「しかし、柳生のために壺を取ってやるもよいが、日光じゃとて、それほどの大金は必要あるまい。貧藩を急に富まして、その莫大な金を蔵せしめておくは、これまた不穏の因《もと》であろう」
 そそくさと羽織を引きずって二、三歩、後を慕った愚楽、ふたたびそこへ平伏するとともに、
「さあ、そこでござりまする。こちらへ壺を入手し、その壺中の書き物によって、埋宝をさがしだし、日光御修営に必要なだけを柳生に下げ戻しまして、あとはお城のお金蔵《かねぐら》へ納めましたならば、八方よきように鎮《しず》まりますことと存じますが」
 下を向いて言う愚楽の声……これは、隠密などが使った一種の含み声で、口の中で小声を発するのだけれども、奇妙に一直線に走って、数間離れた相手にまで、はっきり聞こえる。そして、それ以上遠いところや、部屋の外へなどは、絶対に洩れることのないという、独特の発音法です。
 吉宗は、もうその話は倦《あ》きたといったように、
「名案じゃ、よきにはからえ」
 つぶやくようにいったきり、だまりこんでしまった。
 お納戸役が御膳部《おたて》へ、朝飯のお風味に出かけていったのち、毒味がすんで、お膳を受け取ってお次の間まで運んでまいります。二、三人のお子供小姓やお坊主が、それを引きついで、将軍の御前へすすめる。
 入れちがいに、一礼して立ちあがった愚楽老人は、人形がお風呂敷をかぶったような恰好で、御拝領羽織をだぶだぶさせながら、大奥から、お鈴《すず》の間《ま》のお畳廊下へ出ていきました。
 なんとも珍妙な風態だけれど、いつものことだから、行き交《か》う奥《おく》女中、茶坊主、お傍御用の侍たちも、さわらぬ神に祟《たた》りなしと、知らん顔。
「ソレ、お羽織が通る……」
 というんで、誰もこの愚楽老人のことを、まともに呼ぶ者はなかった。城外では、垢すり旗本、殿中では、この、お羽織お羽織で通ったものです。
 眼引き、袖引き、ひそかに笑う者があったりすると、愚楽老人、
「御紋が見えぬか」
 と、背中のこぶを突き出して、きめつけていく。
 真青なお畳廊下。金の釘隠しがにぶく光って、杉の一枚戸に松を描いたのが、ズラリと並んでいる。これが有名な松の廊下……元禄《げんろく》の浅野《あさの》事件の現場です。
 お羽織がそこまでさがってきたとき、お坊主を案内に立てて、向うの角からまがってきた裃《かみしも》姿のりっぱな武士……象《ぞう》のような柔和な眼、下《しも》ぶくれの豊かな頬には、世の中と人間に対する深い理解と、経験の皺《しわ》が刻まれ、鬚《びん》にすこし白いものがまじって、小肥りのにがみばしったさむらい。
 愚楽老人とその侍が、ちょっと目礼をかわして、すれちがおうとしたとたん、不意に立ちどまった愚楽、
「や! これは奇怪な! なんでこのお羽織を踏まれた。いやさ、なんの遺恨ばしござって、このお羽織の裾を踏まれたか。それを聞こう、うけたまわろう!」
 と、やにわに、くってかかりました。

       三

 越前守と、官を賜《たまわ》っていても、多く、旗本などがお役付きになるのですから、殿中における町奉行の位置なんてものは、低いものだった。
 今……南町奉行大岡越前守忠相、踏みもしない羽織の裾を踏んだと、愚楽老人に言いがかりをつけられて、そのふくよかな顔に困《こん》じはてた色を見せ、
「いや、これはとんでもない粗相を――平に御容赦にあずかりたい」
 弁解はいたしません。踏みもしないのに、しきりにあやま
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