っている。
 上様以外、お城に怖いもののない愚楽老人は、ますます亀背の肩をいからせて、つめよりながら、
「そういえば、貴殿は大岡殿であったな。不浄役人に、この羽織をけがされたとあっては、愚楽、めったに引きさがるわけにはゆき申さぬ」
 かさにかかっての無理難題……忠相を案内して来たお坊主は、かかりあいになるのを恐れて、おろおろして逃げてしまう。
 愚楽の声が高いから、人々は何事かと、眼をそばだてていくのです。
 松のお廊下は、千代田城中での主要な交通路の一つ。
 書類をかかえて、足ばやに通りすぎるのは、御書院番の若侍。

 文箱《ふばこ》をささげ、擦《す》り足を早めて来るのは、奥と表の連絡係、お納戸役付きの御用人でしょう。退出する裃《かみしも》と、出仕の裃とが、肩をかわして挨拶してすぎる。
 いわば、まあ、交通整理があってもいいくらいの、人通りのお廊下だ。
 その真中で、南のお奉行大岡様をつかまえて、愚楽老人が、かれ独特のたんかをきっているんですから、たちまち衆目の的になって、
「またお羽織が、横車を押しているぞ」
「ぶらさがられておるのは、大岡殿じゃ。早くあやまってしまえばよいのに」
 それは、言うまでもないので、大岡越前、さっきからこんなに、口をすっぱくして詫びているんですが、愚楽老人、いっかな退《ひ》かない、
「この年寄りは胸をさするにしても、お羽織がうんと承知せぬわい」
 無礼御免の大声をあげた愚楽は、
「こっちへござれ! 篤《とく》と言い訳を聞こう」
 そう、もう一つ聞こえよがしにどなっておいて、ぐいと大岡様の袖を掴むなり、そばの小部屋へはいっていく。
 大岡越前守忠相は、泰然たる顔つきです。愚楽老人に袖をとられたまま、眉一つ動かさずに、その控えのお座敷へついて行きましたが……ピシャリ、境の襖をたてきった愚楽、にわかに別人のごとき声をひそめ、
「ただいまは、とんだ御無礼を――ま、ああでもいたさねば、尊公と自然に、この密談に入るわけにはまいりませなんだので」
 大岡様は、事務的です。
「いや、それはわかっております。して、このたびの御用というのは、どういう……?」
「例の壺の一件ですがナ」
 と、愚楽老人、神屏風を作って伸びあがるとともに、御奉行の耳へ、何事かささやきはじめた。

   うるさいねえ


       一

「いかがいたしたものでござりましょう」
 というのは、峰丹波がこのごろ、日に何度となく口にしている言葉なので……。
 いまも、そう呟いたかれ丹波は、月光にほの白く浮かんでいるお蓮様の横顔を、じっとみつめて、
「不意をおそって斬るにしても、かの源三郎めに刃の立つ者は、当道場には一人も――」
「うるさいねえ」
 と、お蓮は、ふっと月に顔をそむけて、吐き出すように、
「ほんとに、業《ごう》が煮えるったら、ありゃアしない。弱虫ばっかりそろっていて――」
 丹波の苦笑の顔を、月に浮かれる夜烏の啼き声が、かすめる。
「当方が弱いのではござりませぬ。先方が強いので」
「同じこっちゃあないか、ばかばかしい。あの葬式の日に、不知火銭を拾って乗りこんで来て、名乗りをあげた時だって、お前達はみんな、ぽかんと感心したように、眺めていただけで、手も足も出なかったじゃないか。ほんとに、いまいましったら!」
 お蓮様の舌打ちに、合の手のように、草の葉を打つ露の音が、ポタリと……。
 それほど閑寂《しずか》。
 妻恋坂の道場の庭――その庭を行きつくした築山のかげに、小暗い木の下闇をえらんで、いま立ち話にふけっているのは、源三郎排斥の若い御後室お蓮様と、その相談役、師範代峰丹波の両人。
 あれから源三郎、ドッカとこの道場に腰をすえて、動かないんです。
 と言っても、もう萩乃と夫婦になったわけではない。ただ、一番いい奥座敷を、三間ほど占領して、源三郎はその一室に起居し、安積玄心斎、谷大八等の先生方は、源三郎を取りまいてその一廓に、勝手な暮しをしているのだ。
 同じ屋敷にいながら、司馬道場の人々とは、顔が合っても話もせず、朝晩の挨拶もかわさないありさま……一つの屋敷内に、二つの生活。
 持久戦にはいったわけだ。
 どっちかが出るか、押し出されるか――。
 こいつはよっぽど変わった光景で、お蓮様、峰丹波の一派は、源三郎を婿ともなんとも認めないばかりか、路傍の人間がかってにおしこんできたものと見ているので、われ関せず焉《えん》と、どんどん稽古もすれば、先生亡きあとの家事の始末をつけている。
 伊賀の暴れん坊の一団は。
 見事な廊下で、男の手だけで煮炊《にた》きをするやら、洗濯をして松の木にほすやら……当家の主人は、こっち側とばかり、梃子《てこ》でも動かぬ気組み。
「どうにかせねばなりませぬ。いかがいたしたものでござりましょう」
 これが毎日続
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