うはお城で、阿部播磨守《あべはりまのかみ》様におめどおりするのだが――」
 と出がけに言うと、細君が心得ていて、
「阿部播磨《あべはりま》さまは、糸輪入《いとわい》らずの鷹《たか》の羽《は》の御紋でしたね。ハイ、そのい[#「い」に傍点]の抽斗の、上から三番目のホのところですよ」
 なんかと、出してくる。
 亀井讃岐守《かめいさぬきのかみ》に会うのに、森美作守《もりみまさかのかみ》のお羽織で出ちゃア、まずいんです。
 松平能登守《まつだいらのとのかみ》は、丸に変り柏《かしわ》。
 永井信濃守《ながいしなののかみ》は、一|引《ぴ》きに丸屋三ツ。
 丹下左膳は、黒地に白抜きの髑髏《しゃれこうべ》……。
 こいつアお数寄屋衆には、用事がない。
 お大名の袖の下が、唯一の目あてのお茶坊主ですから、そのお大名に会う時は、その御紋のついた羽織でないと、ぐあいがわるい。何人もの恋人からネクタイをもらってるモダンボーイが、特定の彼女とのランデブーには、その彼女のプレゼントであるネクタイをして出かける必要があるようなもの。
 同時に。
 お数寄屋坊主は、その諸侯の羽織[#「羽織」は底本では「羽繊」]のおかげで、殿中でもウンとはぶりがきいたものなんです。おれはきょうは堀備中守《ほりびっちゅうのかみ》さまのお羽織を着ている、イヤ、きょうの下拙《げせつ》の紋は、捧剣梅鉢《ほうけんうめばち》で加賀中納言様《かがちゅうなごんさま》だゾ――なんかといったあんばい。
 でも。
 その諸侯の長たる将軍家の拝領羽織《はいりょうはおり》を着ているものは、ひとりもない。
 愚楽老人はお坊主ではございませんが、終始、チャンとそのお拝領を一着におよんでいるのは、この老人たったひとりなのだ。
 お湯殿以外のところでは、つねにその羽織を着て、肩で風をきっている。もっとも、三尺そこそこだから、肩で風をきるという、颯爽《さっそう》たるようすにはまいらない。裾はひきずり、手なんかスッカリかくれて、ブクブクです。まるで狼《おおかみ》が衣を着たよう……。
 それでも、何かというと、背中の瘤《こぶ》にのっかっている大きな葵の御紋を、グイと突き出して見せると、老中でも、若年寄でも、
「へへッ!」
 とばかり、おそれ入ってしまう。
 本人は得意気で、
「虎の威《い》を借る羊じゃ」
 というのが、口癖。よく知っているんです。――上様も、だまって見て、笑っていらっしゃる。
 その、拝領のお羽織の袖をまくった愚楽老人……柳生はだいぶ弱っておるかの?
 というお問いに答えるまえに、パチン、パチンと、ふたつ三つ将軍のお爪をきりましたが、ややあって、
「埋めある黄金をとりまいて、執念三つ巴《どもえ》、いや、四つ、五つ巴を描きそうな形勢にござりまする、はい」
 と、左の足の小指へ鋏を移しながら、言上した。

   名所《めいしょ》松《まつ》の廊下《ろうか》


       一

「ふうむ」
 と、八代様は、両手を縁につき、おみ足を愚楽老人の手に預けたまま、
「柳生の財産をめぐって、騒ぎをいたしおると?――じゃが、愚楽、その黄金が埋め隠してあるというのは、たしかな事実であろうな?」
 愚楽老人は、またしばらく沈黙です。
 すんだ鋏の音が、ほがらかな朝の空気に伝わって、銀の波紋のように、さわやかにちってゆく……。
「へい、事実も事実、上様が八代将軍様で、わっしが垢すり旗下じゃというくらいの紛れもない事実にござります。じゃがな、このことを知っているのは、柳生の大年寄、一風てえお茶師と、あっしぐらいのもんで、へえ。それも、そういう金が、柳生家初代の手で、どこかの山中に埋めてあるということだけは聞いておりますものの、所在は、誰も知りません」
「誰も知らんものを、どうして掘り出す?」
「それがその、こけ猿の茶壺と申す天下の名器に、埋蔵場所を記して封じこんでありますんで。ただいまその壺をとりまいて、渦乱が起こりそうなあんばい……」
 吉宗公の眼に、興味の灯が、ぽつりとともりました。
「柳生の金なら、柳生のものじゃのに、何者がそれを横からねらいおるのか。余も、その争奪《そうだつ》に加わろうかな、あははははは」
 大声に笑った八代様は、半分冗談のような、はんぶん本気のような口調だ。
 まじめ顔の愚楽老人は、
「柳生は必死でござります。本郷の司馬道場に、居坐り婿となっております弟源三郎を、江戸まで送ってまいりました連中――これは、安積玄心斎《あさかげんしんさい》なるものを頭《かしら》としておりますが、そこへまた、国もとからも、一団の応援隊が入府《にゅうふ》いたしまして、目下江戸の町々に潜行いたしておる柳生の暴れ者は、おびただしい数でござります。それらがみな力を合わせて、いま申したこけ猿の壺をつけまわしておりますが……かんじ
前へ 次へ
全136ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング