生きて来た自分の一生、左膳のあたまに、めずらしく、こんなことが浮かぶのです。
相馬中村《そうまなかむら》の藩を出て、孤剣を抱いて江戸中を彷徨《ほうこう》するようになってから、いろんなことがあったっけ……手にかけた人の数は、とてもかぞえきれない。冒《おか》した危険、直面した一身の危機も、幾度か知れないけれど、それはいったいみんななんであったか――?
左膳が眉をひそめると、刀痕がぐっと浮きたつのだ。
自分はいったい、故郷《くに》を出てから、なんのために刀をふるってきたのか――わからない。それが、わからなくなってしまった。
ただ、こういうことだけは言える。じぶんはきょうの日まで、自分のことを考えなかった。その証拠には、いまこうして橋の下の小屋住い……ここで一つ、壺によって、その柳生の埋宝をさがし出し、この風来坊が一躍栄華の夢をみる――それも一生、これも一生ではないかと、剣魔左膳に、この時初めて、黄金魔《おうごんま》左膳の決心が……。
狼《おおかみ》が衣《ころも》を
一
白綸子《しろりんず》のお寝まきのまま、広いお庭に南面したお居間へ、いま、ノッソリとお通りになったのは、八代|吉宗公《よしむねこう》……寝起きのところで、むっと不機嫌なお顔をしてらっしゃる。
朝の六つ半、すこしまわったところ。
お納戸《なんど》坊主が、閉口頓首《へいこうとんしゅ》して、御寝《ぎょしん》の間のお雨戸をソロソロ繰りはじめる、そのとたんを見すまし、つまり、お坊主の手が雨戸にかかるか掛からないかに、お傍《そば》小姓がお眼覚めを申し上げるのです。
お居間は、たたみ十二枚。上段の間で、つきあたりは金襖《きんぶすま》のはまっている違い棚、お床の間、左右とも無地の金ぶすまで、お引き手は総銀《そうぎん》に、葵《あおい》のお模様にきまっていた。
正面の御書院づくりの京間には、夏のうち、ついこの間までは七草を描いた萌黄紗《もえぎしゃ》のお障子が立っていたが、今はもう秋ぐちなので。縁を黒漆《くろうるし》に塗った四尺のお障子が、ズラリ並んでいる。
まことにお見事……八代さまは、ズシリ、ズシリと歩いて、紺緞子《こんどんす》二まい重ねのお褥《しとね》にすわった。
お庭さきのうららかな日光に眼をほそめて、あーアッ、と大きな欠伸《あくび》とともに、白地に葵《あおい》の地紋のある綸子《りんず》の寝巻の袖を、二の腕までまくって、ポリポリ掻いた。
現代《いま》ならここで、朝刊でも、金梨地《きんなしじ》か何かのほそ長い新聞入れに入れて、お前におすすめするところだが……二人のお子供小姓が、お手水《ちょうず》のお道具をささげて、すり足ではいってきた。
さきのお小姓は、黒ぬりのお盥《たらい》を奉じている。
あとの一人は、八寸の三宝に三種の歯みがき――塩《しお》、松脂《まつやに》、はみがきをのせて、お嗽《すす》ぎを申し入れる。
それから、お居間からずっと離れたお湯殿へいらせられて、朝の御入浴です。
相変わらず、垢すり旗下愚楽老人が、お待ち受けしていて、お流し申しあげる。
ぜいたくなものです。まア、こうはいかないが、亭主関白の位とかいって、たいがいの人が、家庭で奥さんのまえでは、これに似た調子で大いにいばっているけれども、一歩省線の吊皮《つりかわ》につかまって役所なり会社なりへ出ると、社長、重役、部長、課長なんてのが威張っていて、ヘイコラしなくちゃアならない。ちょっと悲哀を感ずることもあるでしょう。ところが将軍様なんてのは、いばりっぱなしなんだから、一日でもこうなってみたら、さぞ痛快だろうと思うんで。
やがてのことに……。
湯からあがってきた吉宗は、平服に着かえて、居間へ帰った。
「お爪を――」
といって、あとを追ってきた愚楽老人が、そこの九尺の畳廊下《たたみろうか》に、平伏した。手に、小さな鋏を持っている。
いま見ると、この愚楽老人、上様拝領の葵の黒紋つきをはおっているのだが、亀背の小男だから、まるで子供がおとなの羽織を引っかけたようにしか見えない。
吉宗はニコリともせずに、縁に足を投げ出した。
愚楽が冴えた鋏の音を立てて、その爪の一つを切りはじめると、
「柳生は、だいぶ苦しがっておるかの?」
御下問です。
二
冬は、黒ちりめん。
夏は黒絽《くろろ》を……。
お数寄屋《すきや》坊主は、各諸侯に接するとき、その殿様にいただいたお定紋《じょうもん》つきの羽織を着て出たもので。
だから、下谷御徒町《したやおかちまち》の青石横町《あおいしよこちょう》に住む、お坊主頭《ぼうずがしら》の自宅《うち》なんかには、各大名の羽織が何百枚となく、きちんと箪笥に整理されていたもので、まるで羽織専門の古着屋の観、
「オイ、きょ
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