られた左膳、片手に矢を握って立ったまま、声のするほうを振りかえりました。
 橋の上に、人が立っている――のだが、その人たるや、ただの人間ではない。じつに異様な人物なので。
 ぼうぼうの髪を肩までたらし、ボロボロの着物は、わかめのように垂れさがって、やっと土踏まずをおおうに足る尻切れ草履をはいているのだが、丈高く、肩幅広く、腕など、隆々たる筋肉の盛りあがっているのが、その縦縞の破れ単衣《ひとえ》をとおして、眼に見えるようである。熊笹《くまざさ》のような胸毛を、河風にそよがせて、松の大木のごとく、ガッシと橋上に立った姿……思いきや、街の豪傑、蒲生泰軒《がもうたいけん》ではないか!
「オウ! 貴様は、いつぞやの乞食先生――!」
 と、思わず左膳は、一眼をきらめかして、驚異七分に懐しさ三分の叫びをあげたが、橋の上の泰軒居士は、悠々閑々《ゆうゆうかんかん》たるもので、
「ウワッハッハッハ、乞食、乞食をよぶに乞食をもってす」
 と、そらうそぶいた。
「つまり、同業じゃナ。爾後《じご》、昵懇《じっこん》に願おう」
 ケロリとしている。
 代々|秩父《ちちぶ》の奥地に伝わり住む郷士の出で、豊臣の残党とかいう。それかさあらぬか、この徳川の治世に対して一大不平を蔵し、駕《が》を枉《ま》げ、辞を低うして仕官を求める諸国諸大名をことごとく袖にして、こうして、酒をくらってどこにでも寝てしまう巷の侠豪、蒲生泰軒です。
 黄金《こがね》を山と積んでも、官位を囮《おとり》にしても、釣りあげることのできない大海の大魚……いわば、まあ、幕府にとっては一つの危険人物。
 学問があるうえに、おまけに、若いころ薩南に遊んで、同地に行なわれる自源坊《じげんぼう》ひらくところの自源流《じげんりゅう》の秘義をきわめた剣腕、さすがの丹下左膳も、チョット一|目《もく》おいているんです。
 その泰軒蒲生先生――見ると、相変わらず片手に貧乏徳利をブラ下げ、片手に、竹をまげて釣糸でも張ったらしい、急造《きゅうぞう》の小弓を持っている。
 今の矢文の主は、この蒲生泰軒――と知って、左膳二度ビックリ、だが、負けずに、ケロリとした顔で、
「フフン、手前《てめえ》にゃア用あねえが、てめえのその鬚《ひげ》っ面に用がある。手前のひげっ面にゃア用はねえが、その鬚《ひげ》っ面のくっついている首に少々ばかり用があるのだ。首が所望だっ……と、おらあ言いてえよ、うふふふっ」
 泰軒は、徳利といっしょに、両手をうしろにまわして、ユックリ背伸びをしました。
「化け物――」
 と、静かな声で、左膳に呼びかけた。
「なんだ」
 化け物といわれて、左膳は平気に返事をしている。
 自分から、ばけものの気《き》……。
 橋の上と下とで、変り物と化け物との、珍妙な問答はつづいてゆく。
「これ、其方《そち》ごとき者でも、生ある以上、動物の本能といたして、日一刻も長生きしたいと願うであろうナ、どうじゃ……」

       三

 生ある以上、いつまでも生きていたかろう、どうじゃ……という、禅味を帯びた泰軒のことばに、左膳はニヤッと笑って、
「なんのつもりで、そんなことをいうのか知らねえが、おらア何も、むりに生きていてえこたアねえ。生まれたついでに、生きているだけのことだ。名分《めいぶん》せえ立ちゃア、いま死んでもいいのだが、それがどうした――」
 橋の下から見あげて、そう問いかえす左膳の片眼は、秋陽を受けて異様に燃えかがやいている。
 泰軒はぐっと欄干につかまって、乗り出した。
「ウム、小気味のよいことをぬかすやつじゃナ。生きておりたいならば、壺を渡せとわしは言うのじゃ」
 痩せ細った左膳の腹が、浪を打って揺れたかと思うと、ブルルッと、寒さを感じたように身ぶるいした左膳……さっと、顔まで別人のように、すごみが走った。
 金属性の甲《かん》高い、ふしぎな笑い声が、高々と秋ぞらに吸われて――。
「なんのために皆が壺をつけまわすか知らなかったが、してみると汝《われ》も、柳生の埋宝をねらう一人か。細民にほどこしをいたすなどと、口はばったいことを看板に……イヤ、壺を渡さぬと申すのではない。渡すから腕で取れといっておるのだ」
「さようか。どうせいらぬ命というなら、それもおもしろかろう」
 しずかな微笑とともに、泰軒ははや歩き出して、
「いずれ、また会う。それまで、壺を離すなよ。天下の大名物《おおめいぶつ》こけ猿の茶壺、せいぜい大切にいたせ」
 片手に持っていた竹の小弓を、ポイと河へほうりこんだ泰軒、つきものの貧乏徳利をヒョイと肩にかついで、そのまま、橋上を右往左往する人馬にのまれて見えなくなった。
 あとに残った左膳は――。
 もう、筵のつくろいをつづける気にもなれない。
 ドサリ、小屋のそばの草に腰をおろして、考えこんだ……いままで
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