萩乃は、じぶんの座敷にひそかにたれこめて、侍女のすすめる白絹の葬衣に、袖をとおす気力だにない。
 床の間に、故父《ちち》の遺愛の品々が飾ってある。それに眼が行くたびに、あらたなる泪《なみだ》頬を伝うて、葬列に加わるしたくの薄化粧は、朝から何度ほどこしても、流れるばかり……婢《おんな》どもも、もらい泣きに瞼をはらして、座にいたたまれず、いまはもう、みんな退室《さが》ってしまった。
 ひとりになった萩乃は、なおもひとしきり、思うさま追憶のしのび泣きにふけったが――。この深い悲哀の中にも。
 ただ一条、かすかによろこびの光線《ひかり》とも思われるのは、父があんなに待ったにもかかわらず、とうとう源三郎様がまに合わないで、死にゆく父の枕頭で、いやなお方と仮《か》りの祝言《しゅうげん》のさかずきごとなど、しないですんだこと。
 源三郎の名を思い起こすと、萩乃はどんな時でも、われ知らず身ぶるいが走るのだった。
 伊賀のあばれん坊なんて、おそろしい綽名《あだな》のある方、それは熊のような男にきまっている……ふつふつ嫌な――!
 その源三郎が、どういう手ちがいか、いまだ乗りこんでこないのだから、いくら父のとり決めた相手でも、今となっては、じぶんさえしっかり頑張れば、なんとかのがれる術《すべ》があるかも知れない――。
 それにしても、源三郎の名がきらいになるにつけて、日とともに深められていくのは、あの、植木屋へのやむにやまれぬ思慕のこころ……。
 あの凜《りん》とした植木屋の若い衆を想うと、その悲痛のどん底にあっても、萩乃は、ひとりでポッと赧《あか》らむのです。
「じぶんとしたことが、なんという――しかも、この、お父様のお葬式の日に……」
 いくら自らをたしなめても、胸の一つ灯は、逝《ゆ》きにし父へのなみだでは、消えべくもないのだ。
 子として、父の死を悼まぬものが、どこにあろう――でも、かの若い植木屋を思い浮かべると、萩乃は自然に、ウットリと微笑まれてくるのだ。

       二

 焼香は、二度香をつまんで焚き、三歩逆行して一礼し、座に退くのだ。
 出棺の時刻が迫り、最後の焼香である。
 遺骸を安置した、おもて道場の大広間……。
 片側には、司馬家の親戚をはじめ、生前、剣をとおして親交のあった各大名、旗下の名代が、格に順じてズラリと居流れ、反対の側には、喪服の萩乃、お蓮様を頭に、峰丹波、岩淵達之助、等々力十内等重立った門弟だけでも、四、五十を数えるほど並んでいる。
 緋《ひ》の袈裟《けさ》、むらさきの袈裟――高僧の読経《どきょう》の声に、香烟、咽ぶがごとくからんで、焼香は滞《とどこお》りなくすすんでゆく。
 亡き父への胸を裂く哀悼と、あの、名もない若い植木屋への、抉《えぐ》るような恋ごころとの、辛い甘い、ふしぎな交錯に身をゆだねて、ひとり居間にたれこめていた萩乃は、侍女にせきたてられて白の葬衣をまとい、さっき、手を支えられてこの間へ通ったのだったが、着座したきり、ずっとうつむいたままで……。
 気がつかないでいる――じぶんの隣、継母のお蓮さまとのあいだに、裃に威儀を正した端麗な若ざむらいが、厳然と控えていることには。
 吉凶いずれの場合でも、人寄せのときには、不知火銭にまじえて、ただ一つ、自分が御礼と書いた包みを投げ、それを拾った者はたとえ足軽でも、樽《たる》ひろいでも、その座に招《しょう》じて自分のつぎにすわらせる例。
 今度も、昨夜、おひねりの一つに御礼と書かされた。
 だから、誰か一人この場に許されているはずだが……それもこれも、萩乃はすべてを忘れ果てて、じっとうなだれたまま、袖ぐちに重ねた両の手を見つめています。
 が、お蓮様は、眼が早い。
 岩淵《いわぶち》、等々力《とどろき》の両人に案内されて、さっきこの広間へはいってきた若い武士を一眼見ると、サッ! と顔いろを変えて峰丹波をふりかえりました。
 これが源三郎とは知らないお蓮さまだが、あの得体の知れない植木屋が、こんどは、りっぱな武士のすがたで乗りこんで来たんだから、ただならない不審のようすで、丹波へ、
「植木屋が裃を着て、ほほほ、これはまた、なんの茶番――」
 とささやかれた丹波、源三郎ということは、秒時も長く、ごまかせるだけごまかしておこうと、
「ハテ、拙者にも、とんと合点《がてん》がゆきませぬ。なれど、萩乃様の包みをひろいましたる以上、入れぬというわけには……」
 まったく、それは丹波のいうとおりで。
 御礼のつつみを拾われたからには、それが例法《しきたり》、拒む術《すべ》はありません。
 門前に白馬をつないだ源三郎、
「許せよ」
 と大手を振って、邸内へ通ってしまったのです。つづく玄心斎、その他四、五の面々《めんめん》、
「供の者でござる」
 とばかり、これも門内へ押しと
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