この重荷ですから、破産したって、借金したって追っつかない。天から降った災難も同然で、殿をはじめ、一座|暗澹《あんたん》たる雲に閉ざされたのも、無理はありません。
 と言って、のがれる術《すべ》はない。死んだ金魚をうらんでもはじまらないし……と、しばし真っ蒼で瞑目《めいもく》していた柳生対馬守、
「山へまいる。したくをせい」
 ズイと起ちあがった。

       二

 山へ……という俄《にわか》の仰せ。
 だが、思案に余った対馬守、急に思い立って、これから憂さばらしに、日本アルプスへ登山しようというじゃアありません。
 お城のうしろ、庭つづきに、帝釈山《たいしゃくやま》という山がある。山といっても、丘のすこし高いくらいのもので、数百年をへた杉が、日光をさえぎって生い繁っている。背中のスウッとする冷たさが、むらさきの山気とともに流れて、羊腸《ようちょう》たる小みちを登るにつれて、城下町の屋根が眼の下に指呼される。
 どこかに泉があるのか、朽葉がしっとり水を含んでいて、蛇の肌のような、重い、滑かな苔です。
「殿! お危のうございます」
 お気に入りの近習、高大之進《こうだいのしん》があとから声をかけるのも、対馬守は耳にはいらないようす。庭下駄で岩角を踏み試みては、上へ上へと登って行く。
 いま言った高大之進をはじめ、駒井甚《こまいじん》三|郎《ろう》、喜田川頼母《きたがわたのも》、寺門一馬《てらかどかずま》、大垣《おおがき》七|郎右衛門《ろうえもん》など、側近の面々、おくれじとつづきながら、これはえらいことになった、この小藩に日光お出費《ものいり》とは、いったいどう切り抜けるつもりだろう……ことによると、お受けできぬ申し訳に殿は御切腹、主家はちりぢりバラバラになり、自分たちは失業するんじゃあるまいか――なんかと、このごろの人間じゃないから、すぐそんなけちなことは考えない。金のできない場合には、一藩ことごとく全国へ散って切り取り強盗でもしようか――まさかそんなこともできないが、と一同黒い無言。
 出るのは溜息だけで、やがて対馬守を先頭に登ってきたのは、帝釈山の頂近く、天を摩《ま》す老杉の下に世捨て人の住まいとも見える風流な茶室です。
 このごろの茶室は、ブルジョア趣味の贅沢なものになっているが、当時はほんとの侘《わ》びの境地で、草葺きの軒は傾き、文字どおりの竹の柱が、黒く煤けている。
「どうじゃ、爺。その後は変わりないかな。こまったことが起きたぞ」
 対馬守は、そういって、よりつきから架燈口《かとうぐち》をあけた。家臣たちは、眼白押しにならんで円座にかける。
 三|畳台目《じょうだいめ》のせまい部屋に、柿のへた[#「へた」に傍点]のようなしなびた老人がひとり、きちんと炉ばたにすわって、釜の音を聞いている。
 老人も老人、百十三まで年齢《とし》を数えて覚えているが、その後はもうわからない、たしか百二十一か二になっている一風宗匠《いっぷうそうしょう》という人で、柳生家の二、三代前のことまですっかり知っているという生きた藩史。
 だが、年が年、などという言葉を、とうに通り過ぎた年なので、耳は遠いし、口がきけない。
 でも、この愛庵の帝釈山の茶室を、殿からいただいて、好んで一人暮しをしているくらいだから、足腰は立つのです。
 一風宗匠は、きょとんとした顔で対馬守を迎えましたが、黙って矢立と紙をさし出した。これへ書け……という意味。

       三

 誰の金魚を殺すかと、お風呂場での下相談の際。
 柳生は、剣術はうまかろうが、金などあるまい……とおっしゃった八代吉宗公のおことばに対して。
 千代田の垢すり旗下、愚楽老人《ぐらくろうじん》の言上したところでは――ナアニ、先祖がしこたまためこんで、どこかに隠してあるんです、という。
 果たしてそれが事実なら……。
 当主対馬守がその金の所在《ありか》を知らぬというはずはなさそうなものだが。
 貧乏で、たださえやりくり算段に日を送っている小藩へ、百万石の雄藩でさえ恐慌をきたす日光おつくろいの番が落ちたのだから、藩中上下こぞって周章狼狽。
 刃光刀影にビクともしない柳生の殿様、まっ蒼になって、いまこの裏庭つづきの帝釈山へあがってきたわけ。
 その帝釈山の拝領の茶室、無二庵《むにあん》に隠遁する一風宗匠は、齢《よわ》い百二十いくつ、じっさい奇蹟の長命で、柳生藩のことなら先々代のころから、なんでもかんでも心得ているという口をきく百科全書です。
 いや、口はきけないんだ。耳も遠い。ただ、お魚のようなどんよりした眼だけは、それでもまだ相当に見えるので、この一風宗匠との話は、すべて筆談でございます。
 木の根が化石したように、すっかり縮まってしまってる一風宗匠、人間もこう甲羅《こうら》をへると、まことに
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