ったのです。
田丸という人には、ちょっと文藻《ぶんそう》があった。かれがこの道中の辛苦を書きとめた写本《しゃほん》、旅之衣波《たびのころもは》には、ちゃんとこう書いてあります。
御油《ごゆ》――名物は甘酒に、玉鮨《たまずし》ですな。
つぎは赤坂《あかさか》。名物、青小縄《あおこなわ》、網、銭差《ぜにさ》し、田舎《いなか》っくさいものばかり。
芭蕉の句に、夏の月|御油《ごゆ》より出でて赤坂《あかさか》や……だが、そんな風流気は、いまの主水正主従にはございません。
駕籠は、飛ぶ、飛ぶ……。
岡崎――本多中務大輔殿《ほんだなかつかさたいすけどの》御城下。八|丁味噌《ちょうみそ》[#「八|丁味噌《ちょうみそ》」は底本では「八丁味噌《ちょうみそ》」]の本場で、なかなか大きな街。
それから、なるみ絞りの鳴海《なるみ》。一里十二丁、三十一|文《もん》の駄賃でまっしぐらに宮《みや》へ――大洲観音《たいすかんのん》の真福寺《しんぷくじ》を、はるかに駕籠の中から拝みつつ。
宮《みや》から舟で津《つ》へ上がる。藤堂和泉守《とうどういずみのかみ》どの、三十二万九百五十|石《ごく》とは、ばかにきざんだもんだ。電話番号にしたって、あんまり感心しない……田丸主水正は、そんなことを思いながら、道はここから東海道本筋から離れて、文居《もんい》、藤堂佐渡守様《とうどうさどのかみさま》、三万二千石、江戸より百六|里《り》。
つぎが、長野《ながの》、山田《やまだ》、藤堂氏の領上野、島ヶ原、大川原と、夜は夜で肩をかえ、江戸発足以来一|泊《ぱく》もしないで、やがて、柳生の里は、柳生対馬守|御陣屋《ごじんや》、江戸から百十三里です。
こんもりと樹のふかい、古い町だ。そこへ、江戸家老の早駕籠が駈けこんできたのだから、もし人あって山の上から見下ろしていたなら、両側の家々から、パラパラッと蟻《あり》のような人影が走り出て、たちまち、二ちょうの駕籠は、まるで黒い帯を引いたよう……ワイワイいってついてくる。
何ごと? と町ぜんたい、一時に緊張した中を、一直線に対馬守の陣屋へ突っこんだ駕籠の中から、田丸主水正、ドサリ敷き台にころげ落ちて、
「金魚が――金魚が……」
立ち迎えた柳生家の一同、あっけにとられて、
「田丸様ッ、しっかり召されっ! しきりに金魚とおおせらるるは、水か。水が御所望かっ?」
右《みぎ》御意之趣《ぎょいのおもむき》
一
山里の空気は、真夏でも、どこかひやりとしたものを包んで、お陣屋の奥ふかく、お庭さきの蝉《せみ》しぐれが、ミーンと耳にしみわたっていた。
柳生対馬守は、源三郎の兄ですが、色のあさ黒い、筋骨たくましい三十そこそこの人物で、だれの眼にも兄弟とは見えない。
二万三千石の小禄ながら、剣をとっては柳生の嫡流、代々この柳生の庄の盆地に蟠踞《ばんきょ》して、家臣は片っぱしから音に聞こえた剣客ぞろい……貧乏だが腕ッぷしでは、断然天下をおさえていました。
半死半生のてい、おおぜいの若侍にかつがれて、即刻、鉢巻のまま主君のお居間へ許された田丸主水正、まだ早駕籠に揺られている気とみえて、しきりに、眼のまえにたれる布につかまる手つきをしながら、
「オイッ! 鞠子《まりこ》までいくらでまいるっ? なに、府中《ふちゅう》より鞠子へ一里半四十七文とな?」
「シッ! 田丸殿、御前《ごぜん》でござる。御前でござる――」
「いや苦しゅうない」
対馬守は、微笑して、
「其方《そち》らも早駕籠に乗ってみい。主水正は、まだ血反吐《ちへど》を吐かぬだけよいぞ……主水ッ! しっかりせい。予じゃ、対馬じゃ」
「おや、これはいかな! 柳生の里を遠く乗り越して、対馬とはまたいかい日本のはずれへ来おったものじゃが――おウッ! 殿ッ!」
と初めて気のついた主水正、膝できざみ寄って、
「タ、たいへんでござります。金魚が死に申した」
江戸家老が、こうして夜を日に継いで注進してきたのだから、もとより大事件|出来《しゅったい》とはわかっているが、対馬守は、さきごろ司馬道場の婿として上京して行った弟、伊賀の暴れン坊が、何かとんでもない問題を起こしたのだとばっかり思っているから、
「ナニ、源三郎が金魚を……何か、司馬先生お手飼いの珍奇な金魚に、源三郎めが失礼でも働いたというのかっ?」
「違いまする、違いまする!」
田丸は、両手を振り立てて、
「源三郎様とは無関係で――おあわて召さるな。金魚籤の金魚が浮かんで、明年の日光御造営奉行は、御当家と決まりましたぞっ」
これを聞くと、樽《たる》のような胆ッ玉の対馬守、さっと蒼味《あおみ》走った額になって、
「事実か、それは! 金魚が――金魚が……ウウム、予も早駕籠を走らせてどこぞへ行きたい」
貧乏な柳生藩に、
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