動かさなかった。
 剣客のむすめだけに、剣のひびきに胆をひやさぬのは、当然にしても、じつは萩乃、この数日なにを見ても、何を聞いても、こころここにないありさまなのだった。
 屋敷中に、パッと明るく灯が輝いて、婢《おんな》たちの駈けまわるあわただしい音、よびあう声々――遠く裏庭のほうにあたっては、多人数のあし音、掛け声が乱れ飛んで、たいがいの者なら、ゾクッと頸すじの寒くなる生血の気はいが、感じられる。
 にもかかわらず、派手な寝まきすがたの萩乃は、この大騒動をわれ関せず焉《えん》と、ぼんやり床のうえにすわって、もの思いにふけっているのだ。
 ぼんぼりの光が、水いろ紗《しゃ》の蚊帳を淡く照らして、焚きしめた香のかおりもほのかに、夢のような彼女の寝間だ。
 ほっと、かすかな溜息が、萩乃の口を逃げる。
 恋という字を、彼女は、膝に書いてみた。そして、ぽっとひとりで桜いろに染まった。
 あの植木屋の面影が、この日ごろ、鳩のような萩乃の胸を、ひとときも去らないのである。
 無遠慮《ぶえんりょ》に縁側に腰かけて、微笑したあの顔。丹波の小柄をかわして、ニッとわらった不敵な眼もと……なんという涼しい殿御《とのご》ぶりであろう!
 植木屋であの腕並みとは?……丹波はおどろいて、平伏して身もとを問うたが。
「ああ、よそう。考えるのは、よしましょう」
 と萩乃は口に出して、ひとりごとをいった。
「自分としたことが、どうしたというのであろう――お婿さまときまった柳生源三郎様が、もうきょうあすにもお見えになろうというのに、あんな者に、こんなに心を奪われるなどとは」
 ほんとに、あの男は、卑しい男なのだ、と萩乃は、今まで日になんべんとなく、じぶんにいい聞かしていることを、また胸にくりかえして。
「植木屋の下職《したしょく》などを、いくら想ったところで、どうなるものでもない。じぶんには、父のきめた歴《れっき》とした良人《おっと》が、いまにも伊賀から乗りこんでこようとしている……」
 でも、伊賀の暴れん坊などと名のある、きっと毛むくじゃらの熊のような源三郎様と、あのすっきりした植木屋と――ほんとうに世の中はままならぬ。でも、恋に上下の隔てなしという言葉もあるものを……。
「萩乃さん、まだ起きていたのかえ」
 萩乃は、はっとした。継母のお蓮さまが、艶《えん》な姿ではいってきた。

       二

 
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