ーッ! シッ! と警蹕《けいひつ》の声。
吉宗公、御着座だ。
三
「用意を」
と吉宗、お傍《そば》小姓をかえりみた。
お小姓の合図で、裾模様の御殿女中が、何人となく列をつくって、しずしずとあらわれ出た。濃いおしろい、前髪のしまった、髱《たぼ》の長く出た片はずし……玉虫いろのおちょぼ口で、めいめい手に手に、満々と水のはいった硝子の鉢を捧げている。
それを、一同の前へ、膝から三尺ほどのところへ、一つずつ置いた。
二十年めの日光御修理の役をきめるには、こうして将軍のまえで、ふしぎな籤《くじ》をひいたものである。
さて、一同の前に一つずつ、水をたたえたギヤマンの鉢が配られると、裃《かみしも》すがたの愚楽老人が、ちょこちょこ出てきた。子供のようなからだに、しかつめらしいかみしもを着ているのだから、ふだんなら噴飯《ふきだ》すものがあるかも知れないがいまは、それどころではない。
みな呼吸《いき》をつめて、愚楽を見つめている。
老人、手に桶《おけ》をさげている。桶の中には、それはまた、なんと! 金魚がいっぱい詰まっていて、柄杓《ひしゃく》がそえてあるのだ。
生きた金魚……真紅の鱗《ひれ》をピチピチ躍らせて。
金魚籤《きんぎょくじ》が、はじまった。
愚楽老人は、一匹ずつ柄杓で、手桶の金魚をすくい出しては、はしから順々に、大名達の前に置いてあるギヤマン鉢へ、入れてゆくのだ。
ごっちゃに押しこめられた桶から、急に、鉢の清水へ放されて、金魚はうれしげに、尾ひれを伸ばして泳いでいる。
ふしぎな儀式かなんぞのよう――一同は、眼を見ひらいて、順に金魚を入れてゆく老人の手もとに、視線を凝《こ》らしている。
じぶんの鉢に入れられた金魚が、無事におよぎ出した者は、ホッと安心のてい。
愚楽老人の柄杓が、上座から順に、鉢に一ぴきずつ金魚をうつしてきて、いま、半《なか》ばを過ぎた一人のまえの鉢へ、一匹すくい入れると、
「やっ! 死んだっ! 当たったっ……!」
と口々に叫びが起こった。この鉢に限って、金魚が死んだのだ。どの金魚も、すぐ、いきおいよくおよぎ出すのに、これだけは、ちりちりと円くなって、たちまち浮かんでしまった。
「おう、柳生どのじゃ。伊賀侯じゃ」
その鉢を前にして、柳生藩江戸家老、田丸主水正《たまるもんどのしょう》、蒼白な顔で、ふるえだした。
前へ
次へ
全271ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング