が――」
「開《あ》けてはならぬっ! 障子のそとで申せっ! なんだ」
玄心斎の大声に、一同べたべたと一間のたたみ廊下に手を突くけはいがして、
「こけ猿が紛失いたしました」
室内の玄心斎、障子を背におさえたまま、サッと顔いろをかえた。
「ナニ、こけ猿が? して、お供の人数の中に、何人《だれ》か見あたらぬ者はないかっ?」
「かの、つづみの与吉と申すものが、おりませぬ」
「チェッ! してやられたか。遠くは行くまい。品川じゅうに手分けしてさがせっ!」
と玄心斎の下知《げち》に、バラバラっと散って行く伊賀の若ざむらいども。
「殿、お聞きのとおり、あのつづみの与吉めが、耳こけ猿を持ち出しましてござります。察するところ、彼奴《きゃつ》、妻恋坂の峰丹波の命を受け、三島まで出張りおって、うまうまお行列に加わり……ウヌッ!」
「そうであろう」
源三郎は、淡々として水のごとき顔いろ、
「そこへ、今夜この女が、与吉と連絡をとりに、入りこんだものであろう。こけ猿は、なんとしても取り返せ」
「御意《ぎょい》!」
玄心斎も、柄《つか》をおさえて、走り去った。
こけ猿というのは……。
相阿弥《そうあみ》、芸阿弥《げいあみ》の編した蔵帳《くらちょう》、一名、名物帳《めいぶつちょう》の筆頭にのっている天下の名器で、朝鮮渡来の茶壺である。
上薬《うわぐすり》の焼きの模様、味などで、紐のように薬の流れているのは、小川。ボウッと浮かんでいれば、かすみ、あけぼの、などと、それぞれ茶人のこのみで名があるのだが、この問題の茶壺は、耳がひとつ欠けているところから、こけ猿の名ある柳生家伝来の大名物。
このたび、源三郎婿入りの引出ものに、途中もずっとこの茶壺一つだけ駕籠に乗せて、大大名の格式でおおぜいで警護してきたのだ。
そのこけ猿の茶壺が、江戸を眼のまえにしたこの品川の泊りで、司馬道場の隠密つづみの与吉に、みごと盗みだされたのだった。
肩をいからした柳生の弟子ども、口々にわめきながら、水も洩らさじと品川の町ぜんたいを右往左往する。首を送りこむ役は、門之丞にくだって、手紙をくわえた女の生首は、油紙《ゆし》にくるんで柳生の定紋うった面箱《めんばこ》におさめられ、ただちに夜道をかけて妻恋坂へとどけられた。挑戦の火ぶたは、きられたのです。
宿役人の杞憂《きゆう》は、現実となった。春は御殿山《ごてんやま
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