与吉がその影へ向かって財布を投げて行ったことなどは、栄三郎は夢にも知らない。
 往来で二、三度左右にためらった末、与吉は亀のように黒船町の角へすっ[#「すっ」に傍点]飛んで行く。まがれば高麗《こうらい》屋敷。町家が混んでいて露地抜け道はあやのよう――消えるにはもってこいだ。
 おのれ! 剣のとどきしだい、脇の下からはねあげてやろうと、諏訪栄三郎、腰をおとして追いすがって行った。
 それを見送って、振袖銀杏のかげからにっ[#「にっ」に傍点]と笑顔を見せたのは、鈴川源十郎である。
 手に、ずしり[#「ずしり」に傍点]と重い財布を持っている。
 斬られたと思った与吉が駈け出して来て、手ぎわよく財布を渡して行ったのだから、源十郎は、あとは野となれ山となれで、食客の丹下左膳が眼の色をかえてさがしている坤竜丸の脇差が、あの若侍の腰にあったことも、この五十両から見ればどうでもよかった。
 見ていたものはない。してやったり! と薄あばたがほころびる。
 ひさしぶりにふところをふくらませた源十郎、前後に眼をやってぶらりと歩き出そうとすると……。
 風もないのにカサ! と鳴る落ち葉の音。
 気にもとめずに
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