屋根のない気楽な身分。わしに用のある時は、この首尾の松の下へ来て、川へ石を――さようさ三つほうることに決めよう。石を三つ水に投げれば、どの舟からかわしが起き上がる……」
と、この時!
ぐらぐらと舟が傾いて、お艶は危なく栄三郎に取りすがったが、ふしぎ! 流潮《ながれ》に乗って張りきったもやいの綱を岸でたぐるものがあるらしく、あっというまに舟が石垣にぶつかったかと思うと、頭の上に多人数の跫音《あしおと》が乱れ立って、丹下左膳のどら声が河面《かわも》を刷《は》いた。
「おいッ! 乾雲が夜泣きをしてしようがねえから、片割れをもらいに来たんだ。へッ、坤竜丸よ。おいでだろうな、そこに!」
河も岸も空も、ただ一色の墨。
その闇黒が凝《こ》って散らばったように、二十にあまる黒法師が、堀をはさんで立つ松の木下にピタッと静止していた。
左膳、源十郎を頭に、本所化物屋敷の百鬼が、深夜にまぎれて群れ出てきたのだ。
文字どおり背水の陣。
岸のふち、舟板を手にのっそりと構える蒲生泰軒に押し並んで、諏訪栄三郎は、もうこころ静かに武蔵太郎安国の鞘を払っていた。われにもなくまつわり立つお艶の身を、微笑とともにそっと片手でかばいながら、
「てめえ達が上陸《あが》るまでは斬らねえから安心してここまで来い」
という左膳のことばを笑い返して、手を貸しあって小舟を離れた三人だった。
うしろは大川。石垣の下の暗い浪にもまれて、ひたひた[#「ひたひた」に傍点]と船底の鳴る音がする。
前面と左右をぐるりと囲んだ影に、一線ずつ氷の棒があしらわれて見えるのは、いうまでもなくひた[#「ひた」に傍点]押しに来る青眼陣の剣林だ。
寂として、物みな固化《こか》したよう。
「逃げるくふうを……ね! ごしょうですから逃げるくふうを――」
お艶の熱声を頬に感じて、栄三郎はちら[#「ちら」に傍点]と泰軒を見やった。
あがりぎわに一枚引きめくって来た艫《とも》の板をぶらさげて、泰軒は半眼をうっとり[#「うっとり」に傍点]と眠ってでもいるよう……自源流《じげんりゅう》水月《すいげつ》の相《すがた》。
すると! 声がした。
「若えの! 行くぜ、おいッ!」
左膳だ。
と、味方の声につられたか、吸われるように寄ってきた黒妖《こくよう》の一つ、小きざみの足から、
「――――!」
無言のまま跳躍にかかろうとするところを! 同じく、無韻《むいん》の風を起こして撃発した栄三郎の利剣が無残! ザクッと胴を割ったかと見るや、左足を踏み出して瞬間刀を預けていた栄三郎、スウッ! とねばりつつ引き離すが早いか、とっさに右転して、またひとりうめき声とともに土をつかませた。
が、この時すでに、銀星上下に飛んで、三人は一度にまんじ[#「まんじ」に傍点]の闘渦《とうか》に没し去っていた。
この騒ぎをよそに、鈴川源十郎はすこし離れて、何かお藤とささやきかわしていたが、刀下をかいくぐって木かげに転びついたお艶の、闇に慣れた瞳に映じたのは、彼女の初めて見る恋人栄三郎であった。
あの、やさしく自分を抱いてくれた手が血のたれる大刀を振りかぶって、チラチラと左右へ走らせる眼には、冷々たる笑いをふくんでいる。
「泰軒先生ッ!」
「おう……そら! うしろへまわったぞ、ひとり!」
いつしか二手に別れて、板一枚で一団を引き受けている蒲生泰軒、伸び上がり、闇をすかして、群らがり立つ頭越しに声をかける。
さながら何かしら大きな力が戦機をかき乱しては制止するようだ――。
ひとしきり飛び違えてはサッと静まり、またひと揺れもみ渡ってはそのまま呼吸をはかりあう。
そのたびに一人ふたり、よろめきさがるもの、地に伏さって鬼哭《きこく》を噛《か》む者。
飛肉骨片。鉄錆《てつさび》に似た生き血の香が、むっ[#「むっ」に傍点]と河風に動いて咽《む》せかえりそう……お艶は、こみあげてくる吐き気をおさえて、袂《たもと》に顔をおおった。
が、見よ!
神変夢想流の鷹《たか》の羽《は》使い――鷹の翼を撃つがごとく、左右を一気に払って間髪《かんぱつ》を入れない栄三郎、もはや今は近よる者もないと見て、
「お艶! どこにいる?」
と刃影のなかからさけぶと、
「はい。ここにおります。――」
答えかけたお艶の口は、いつのまにか忍んできた手に、途中でうしろからふさがれてしまったが、そのかわりに剣魁《けんかい》丹下左膳の声が、真正面から栄三郎を打った。
「なかなかやるなあ、おい! 手をふけよ、血ですべるだろう」
栄三郎は、にっ[#「にっ」に傍点]と笑って片手がたみに胴《どう》わきへこすった。あとの手が柄へ返る。
同時に、
一|閃《せん》した左膳の隻腕、乾雲土砂を巻いて栄三郎の足を! と見えたが、ガッシ! とはねた武蔵太郎の剣尾《けん
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