じ》を引き、小熊が当たって江戸へのぼる。泥之助は国にとどまり、時日を移さず鹿島明神に詣でて願書一札を献納した。
敬白願書奉納鹿島大明神|宝前《ほうぜん》、右心ざしのおもむきは、それがし土子泥之助兵法の師諸岡一羽|亡霊《ぼうれい》は敵討ちの弟子あり、うんぬん……千に一つ負くるにおいては、生きて当社に帰参し、神前にて腹十文字にきり、はらわたをくり出し、悪血をもって神柱《かんばしら》をことごとく朱にそめ、悪霊になりて未来|永劫《えいごう》、当社の庭を草野となし、野干《やかん》の栖《ねぐら》となすべし――うんぬん。
文禄《ぶんろく》二年|癸巳《みずのとみ》 九月吉日 土子泥之助……というまことに不気味な強文言《こわもんごん》。
これがきいて神明おそれをなし霊験ことのほかあらたかだったわけでもあるまいが、両国橋の果し合いでは確かに岩間小熊が勝ったのだけれど、その仕合いの模様にいたっては、群書《ぐんしょ》おのおの千差万別、いま真相をつまびらかにする由もない。しかし、これが当時評判の大事件だったことは疑いなく、奉行のうちに加わって橋詰から目睹《もくと》していた岩沢|右兵衛介《うひょうえのすけ》という仁《ひと》の言に、わが近くに高山|豊後守《ぶんごのかみ》なる老士ありしが、この両人を見て、いまだ勝負なき以前、すわ兎角まけたりと二声申されしを不審におもい、のちその言葉をたずねしに、豊後守いいけるは、小熊右に木刀を持ち左手にて頭をなで上げ、いかに兎角と言葉をかくる。兎角、さればと言いて頬ひげをなでたり。これにて高下《こうげ》の印《しるし》あらわれたり。そのうえ兎角お城に向かいて剣をふる。いかで勝つことを得ん。これ運命の告《つ》ぐる前表也と――。
とにかく。
その時、小熊は兎角のために橋の欄干へ押しつけられ、すでに危うく見えたのだったが、すもう巧者の小熊いかがしけん。兎角の片足を取って橋の下へ投げおとし、同時に脇差を抜いて、八幡これ見よと高声に呼ばわりながら欄干を切った……この太刀跡、かの明暦三年|丁酉《ひのととり》正月の大火に両国橋が焼けおちるまで、たしかに残っていたそうである。
さて。
兎角《とかく》、悪いやつは滅びる――などと洒落《しゃれ》てみたところで、そんなら、この根岸兎角の微塵流剣法、これで見事に、それこそ微塵となって大川に流れ果てたかというにそうではない。
撃剣叢談《げきけんそうだん》巻の二、微塵流のくだりに。
武芸小伝に微塵流|往々《おうおう》存するよし見えたれば、兎角が末流近世までも行なわれしがごとし。いまも、辺鄙《へんぴ》にはなお残れるにや、江戸にはこの流名きこゆることなし……とあるとおりに、月輪軍之助の祖月輪|将監《しょうげん》は、根岸兎角ひらくところの微塵流から出てのちに、北陬《ほくすう》にうつり住んで別に自流を創《そう》し、一気殺到をもって月輪一刀流と誇号したのだった。
当代の道場主軍之助は、以前から丹下左膳と並称された月輪門下の竜虎。
左膳に破流別動の兆あるに反し、軍之助は一刀流正派のながれを守るものとして先師の鑑識《めがね》にかない入婿して月輪を名乗っているのだが、剛柔兼備《ごうじゅうけんび》、よく微塵流の長を伝えて、年配とともに磐石のごとくいま北国を圧する一大剣士であった。
変動無常
因敵転化《てきによっててんかす》
という刀家相伝《とうけそうでん》三略のことば。
それが初代将監先生大書の額となってあがっている月輪の道場である。
夜のひき明け……。
もはや寒稽古は終わったけれど、未明の冷気の熱汗をほとばせる爽快《そうかい》味はえもいわれず、誘いあわせて、霜ばしらを踏んでくる城下の若侍たちひきもきらず、およそ五十畳も敷けるかと思われる大板の間が、見る見る人をもって埋まってゆく。
相馬《そうま》は、武骨をもって聞こえる北浜《ほくひん》の巨藩である。
しかも藩主大膳亮が刀剣を狂愛するくらいだから、よしや雪月花を解する風流にはとぼしいといえども気風として烈々|尚武《しょうぶ》の町であった。
相馬|甚句《じんく》にいう。男寝て待つ果報者――それは武士達のあいだには通用しない俗言とみえて、こんなに朝早くから陸続と道場の門をくぐっているのだ。
竹刀のひびき。
気合いの声。
板を踏み鳴らす音。
それがしばらく続いて、いつもよりすこし早めにとまったかと思うと、
「おのおの方、ただいま先生よりお話がござる。粛静《しゅくせい》に御着座あるよう……」
という師範代|各務房之丞《かがみふさのじょう》の胴間声《どうまごえ》に、一同、ガヤガヤと肩を押し並べてすわったが、おもむろに正面の杉戸が開いて出て来た月輪軍之助を見ると、満堂思わず、アッ! と愕《おどろ》きの声をあげた。
その姿である。急に
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