する、何かは存じませねど、かの丹下殿とはわたくしも別懇《べっこん》のあいだがら……殿のおことばがなくとも、必要とあらばいつにても助勢を繰り出すべきところ――しかも、お眼にとまってわたくしどもへ御芳声《ごほうせい》をいただき、軍之助一門、身にあまる栄誉に存じまする」
「うむ。デ、では、ヒ、ひきとって早く手配をいたすがよい」
「ははッ! わたくしはもとより門弟中よりも荒剣の者をすぐりまして、かならず御意に添い奉る考え、殿、御休神めされますよう……」
「ウム、たたたたッたのもしきその一言、タ、大膳亮、チ、近ごろ満足に思うぞ」
 ――いかに刀剣に対して眼のない溺愛《できあい》の大膳亮とはいえ、もし彼が、この北境|僻邑《へきゆう》にすら今その名を轟かせている江戸南町奉行の大岡越前が、敵方蒲生泰軒との親交から坤竜丸の側にそれとなく庇護《ひご》と便宜をあたえていると知ったなら、大膳亮といえどもその及ばざるを覚り、後難を恐れて、ここらでさっぱりと己《おの》が迷妄《めいもう》を断ちきり、悶々《もんもん》のうちにも忘れようとしたことであろうが、このつるぎのふたつ巴《どもえ》に関連して、大岡のおの字も思いよらない大膳亮としては、すでに大の乾雲を手にして、いまはただの小の坤竜にいき悩んでいるのみと聞いては、二剣相ひくと言われているだけに、いま手をひいて諦めることは、かれの集癖の一徹念がどうしても許さなかった。
 生命がけでほしいものへ今にも手が届きそうで、そこへ思わぬじゃまがはいったすがた……。
 阻《はば》まれれば阻まれるほど燃えたつのが男女恋情のつねならば、夜泣きの刀にひた向く相馬大膳亮のこころは、ちょうどそれだったといわねばなるまい。
 世の常心《じょうしん》をもって測ることのできない、それは羅刹《らせつ》そのものの凝慾地獄《ぎょうよくじごく》であった。
 かくまでも刃にからんでトロトロとゆらめき昇る業炎《ごうえん》……燭台の灯が微かになびくと、大膳亮は、大熱を病む人のごとくにうなされるのだった。
「おお! サさ左膳か――デ、でかしたぞ! ソその乾雲を離すな! 離すな! 今にナ、ググググ軍之助が援軍を率いて参るから、そち、彼とともに統率《とうそつ》して、キキキ斬って斬って、斬りまくれ! なあに、かまわぬ! カカカッ構わぬ……ううむ!――なんと? か、か、火事|装束《しょうぞく》! おのれッ何やつ? トトト脱《と》れ覆面《ふくめん》を? ウヌ! 覆面を剥《は》がぬかッ! ツウッ……!」
 そして。
 ともし灯《び》低く、白《しら》みわたる部屋にこんこんと再び眠りに沈んだ大膳亮――畢竟《ひっきょう》これはうつし世の夢魔《むま》、生きながらに化した剣魅物愛《けんみぶつあい》の鬼であった。
 明けゆく夜。
 城外いずくにか一番|鶏《どり》の声。
 やがて、お堀ばたの老松に朝日の影が踊ろうというころおい。
 中村の町の尽《つ》きるところ、月輪一刀流|月輪軍之助《つきのわぐんのすけ》の道場では、江戸へつかわすふしぎな人選の儀が行なわれているのだった。
 月輪一刀流……とは。
 天正|文禄《ぶんろく》の世に。
 下総《しもうさ》香取郡飯篠村の人、山城守家直《やましろのかみいえなお》入道長威斎、剣法中興の祖として天心正伝|神道流《しんとうりゅう》と号していたが、この家直の弟子に諸岡《もろおか》一|羽《う》という上手《じょうず》あり、常陸《ひたち》えど崎に住んで悪疾を病み、根岸|兎角《とかく》、岩間小熊、土子泥之助なる三人の高弟が看病をしているうちに、根岸兎角はみとりに倦《あ》き、悪疾《あくしつ》の師一羽を捨て武州に出で芸師となり、自派を称して微塵《みじん》流とあらため世に行われた。
 ところが。
 あとに残った小熊と泥之助は、病師の介抱を怠らず、一羽が死んでのち、兎角《とかく》のふるまいをもとより快からず思って、両人力をあわせ一勝負して亡師の鬱憤《うっぷん》をはらそうとはかり、ついに北条家の検使を受け、江戸両国橋で小熊と兎角立ち会い、小熊、根岸兎角を橋上から川へ押しおとして宿志をとげた。
 根岸兎角は、師の諸岡一羽のもとを逐電《ちくでん》して、はじめ相州小田原に出たのだが、この兎角、伝うるところによれば、丈《たけ》高く髪は山伏のごとく、眼に角《かど》あり、そのものすごいこと氷刃のよう――つねに魔法をつかい、人呼んで天狗の変化《へんげ》といい、夜の臥所《ふしど》を見た者はなかった。
 愛宕山《あたごやま》の太郎坊《たろうぼう》、夜な夜なわがもとに忍んで極意秘術を授《さず》けるといい広め、そこで名づけたのがこの微塵流《みじんりゅう》。
 その後江戸に出て大名、小名に弟子多かったが、三年たって諸岡一羽が死ぬと、相弟子の岩間小熊と土子泥之助、兎角を討ちとるために籤《く
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