…。
 江戸へ出て以来|無音《むいん》の左膳から突如急使が到着したと聞いて何事? とすぐさま端近く褥《しとね》を移させたのだが、どうせ代人が手ぶらでくる以上、大した吉報でないのに相違ないと、こうして与吉を待つあいだも、癇癪《かんしゃく》もちの大膳亮、ひとりさかんにいらいらして続けざまに舌打ち――。
 まえはいちめんの広庭。
 遠くからこの寝間の光が小さく四角に浮き出で、灯のはいった箱船のように見えた時、与吉はいよいよお殿様へお眼通りだナと胸がドキンとしたが、なあにたかが田舎大名、恐れるこたアねえやな……こう空《から》元気をつけて、申しあぐべきことづけを口の中で繰り返しながら、飛石を避けて鞠躬如《きくきゅうじょ》、ソロリソロリと御前へ進んで、ここいらと思うと、はるか彼方《かなた》にぴたりと平伏しようとすると、
「チッ、近う! ち、近う、ま、参れッ!」
 と、どなりつけるようなお声がかり。
 大膳亮はいう。
「タタタタタタタッ……たッ、たたたッ丹下左膳カ、から、ッ、つ――ツ、使いに来たというのは、そ、そのほうかッ……」
「さ、さようでごぜえます」
 思わず釣りこまれてどもった与吉はッとして眼をあげたとたん、大柄な殿様の顔が、愛《う》いやつとでも言うようにニッコリ一笑したのを見た。
 こいつぁ江戸張りに生地《きじ》でぶつかってゆくに限る――与吉は早くも要領をつかんだ。
 同時に、大膳亮が四辺《あたり》を見まわして、
「モ、者ども、密談じゃ! 密談じゃ! 遠慮せい、遠慮!」
 やつぎ早に喚《わめ》きたてると、暗くて見えなかったが、左右の廊下にいながれていたお側用人、国家老をはじめ室内の小姓まで、音ひとつたてず消えるようにひきとって行く。
 与吉をうながして、縁の直下までつれていっておいて案内の若侍も倉皇《そうこう》と退出した。
 後には。
 相馬大膳亮とつづみの与の公、水入らずの差し向いである。大膳亮は蒲団から首だけ出して、与吉は、下の地面にへい突くばって。
 珍奇な会談は、まず大膳亮から口をきられた。
「こここ、これ、タッタッ丹下……は無事か」
「お初にお眼にかかりやす。エ、手前ことは江戸は浅草花川戸、じゃアなかった、その、駒形のつづみの与吉――ッてより皆さんが与の公与の公とおっしゃってかわいがってくださいまして……」
「だッ、黙れ、黙れ! ダダ、誰が貴様の名をきいた?」
「へい」
「タタタタ、丹下は無事かッと申すに」
「へえ。さればでござりまする。どうもお殿様の前でげすが、あの方ぐれえ御無事な人もちょいとございませんで、へい[#「ございませんで、へい」は底本では「ございませんで、 へい」]」
「ナ、何を言うのか。き、貴様の言語は余《よ》にはよく通《つう》ぜん」
「なにしろ、やっとうのほうがあのお腕前でございましょう? 江戸中の剣術使いが一時にかかったって丹下様には太刀打ちできねえという、いえ、こりゃアまあ、こちとら仲間の評判なんで……お殿様もお眼が高えや、なんてね、しょっちゅうお噂申しあげておりますでございますよ、お噂を、ヘヘヘヘ失礼ながら」
 何がどうしてなんとやら――自分でもいっさい夢中で、ただもうここを先途《せんど》とべらべらしゃべりたてている与吉を大膳亮は、いささかあきれてのぞきこみながら、
「キキ、貴様、気がふれたか」
 と言いかけたが、寒がりの大膳亮、夜風を襟元へうけて、すばらしく、大きな嚔《くしゃみ》を一つ――ハックシャン!
 これに驚いて与の公、きょとんとしている。
 そのうちにだんだん落ち着いてきた与吉が、ますます縁の真下へにじり寄って、丹下左膳からいいつかって来たことを、思い出し思い出し申しあげると!
 黙って聞いていた相馬大膳亮、大柄な顔が見るみるひき歪んで、カッと両眼を見ひらいたばかり、せきこんで来ると口がきけないらしくやたらに鼻の下をもぐもぐさせて床から乗り出して来た。
 その半面に、明りが奇怪にうつろう。
 ――関の孫六夜泣きのかたな……乾雲《けんうん》丸と坤竜《こんりゅう》丸。
 丹下左膳が、昨年あけぼのの里なる小野塚鉄斎、神変夢想流《しんぺんむそうりゅう》の道場を破って、巧みに大の乾雲丸を持ち出したことから、その後のいきさつ、覆面《ふくめん》火事装束の一団の出現、坤竜の諏訪栄三郎に蒲生泰軒という思わぬ助けがついていて、おまけに左膳が顎《あご》を預けている本所の旗本鈴川源十郎があんまり頼みにならないために諸事意のごとく運ばず、乾雲は依然として左膳の手にあるものの、いまだに二剣ところを別して風雲《ふううん》急《きゅう》を告げ、左膳は今どっちかというと、苦境におちいっているかたち……これらの件を細大《さいだい》洩らさず、順序もなしに与吉は、じぶんのことばでベラベラと弁じあげたのち、エヘン! とちょっとあら
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