―と泰軒が起ちあがると、忠相がそれを眼でとめた。
「蒲生! 忘れ物……」
 と、すばやい視線がお艶へ向いている。泰軒はとぼけた。
「旅は身軽が第一――ハッハッハ、この荷物は当分おぬしに預けておくとしよう!」
 そして、困りきって苦笑している越前守忠相と、もったいなさに消え入りたげに小さくなったお艶を残して、そのとたんに、庭に面した障子はもう泰軒をのんでいた。

  北国旅日記《ほっこくたびにっき》

「親方ア! 返り馬だあ。乗ってくらっせえよ」
 という鼻から抜ける声とともに、間伸びした鈴の音が、立場茶屋の葦簾《よしず》を通して耳にはいると、江戸者らしい若い小意気な旅人が、ひとり飲みかけた茶碗を置いて振り返った。
 縞の着物に手甲|脚袢《きゃはん》、道中合羽に一本ざし、お約束の笠を手近の縁台《えんだい》へ投げ出したところ、いかにも何国の誰という歴《れっき》として名のあるお貸元が、ひょんな出入りから国を売ってわらじをはいているように見えるものの、さて顔を眺めると……まぎれもないあさくさ駒形の兄哥《あにい》つづみの与吉。
 こいつ、櫛まきお藤の隠れ家でのんべんだらりとお預けをくっているはずなのが、それがある朝、ヒョイと思い出したのが丹下の殿様から言いつかっている大事の御用――こりゃアいけねえ、おらあこんなところにいい気に引っかかっていられるわけのもんじゃアねえんだ! と思いついたのが足の踏み出し、お尻の軽いことこの上なしという野郎だから、お藤の姐御《あねご》が先月から家をあけているのと折柄の好天気を幸いに、そそくさとわらじの紐をはきしめて、こうして奥州中村への旅に出て来たのだった。
 影と二人づれの、まことに気の合う旅まくら……。
 なあに、丹下様はどんなに急いでいたってかまうこたアねえやな。こちとらアもらった路銀をせいぜいおもしろおかしく散《さん》じてヨ、それに帰路《かえり》はお侍連の東道役《とうどうやく》、大いばりで江戸入りができようてんだからこんなうめえ話はねえサ。おまけにおいらのこの中村行きは誰ひとり知る者もねえはずだから、栄三郎の側から追っ手の来る心配もなし――ままよ、江戸ッ児の気晴らし旅、まあ、ゆっくりとやるとしよう。
 こういう心だから急げば早い足を格別伸ばそうともせずに、泊りを重ねてこの昼すぎちょうどさしかかったのが野州の小金井だ。
 古河の町は、八万石土井|大炊頭《おおいのかみ》の藩で江戸から十六里。
 その古河を今朝たって野木、間々田《ままだ》、小山、それから二里の長丁場《ながちょうば》でこの小金井。
 道中細見記をたどれば、江戸から中村まで七十八里とあるから、つづみの与の公、まだ前途|遼遠《りょうえん》という次第だが、心がけが遊山気分で、いっこうに足を早めようともせず、こうして日の高いうちからどっかり腰をおろし茶店の老爺《ろうや》を相手に大いに江戸がっているところ。
 白い街道にやけに陽が照りつけて、真冬に北へ向かうのだからどんなに寒かろうと内心おびえて来たにもかかわらず、今日なんかは江戸よりもよっぽどあたたかいくらい。
 それでもさすがに底冷たい風が砂ほこりを吹きこんで、名物と銘《めい》うった団子がザラザラと舌にさわる。ちょいと趣の変わった木立ちや人家、黒ずんだ遠田《とおた》のおもて、路傍に群れさわぐ子供らの耳なれない言葉……。
 江戸っ児はうち弁慶《べんけい》、旅に出てはからきし意気地がないという。
 与吉もその点では御多聞に洩れず、なんだかしきりに心細い気がしてくるのを、自分で懸命に引きたてるつもりで、
「旅もいいが、こちとらみてえな生え抜きの江戸っ児は、一歩お膝下《ひざもと》を出はずれるてえと、食物と女の格がずんと落ちるのに往生するよ。女はお前、肌をみがく水が悪いとして眼エつぶるとしてもヨ、食物はなんでえ食物は!」
「へえ。そうかね」
「チッ! そうかねえじゃねえや。早え話がこの団子よ、こ、こんな物が食えるけえ。これで名物のなんのとチャンチャラおかしいや。なア、江戸じゃあこんな団子は猫も食わねえんだよ」
「あんれ! ここらの猫もハア団子アあんまり食わねえだよ」
「何をッ! 馬鹿にするねえ! えこう、江戸じゃあナ、まあ聞きねえってことよ。金竜山《きんりゅうざん》浅草寺《せんそうじ》名代の黄粉《きなこ》餅、伝法院大|榎《えのき》下の桔梗屋安兵衛《ききょうややすべえ》てんだが、いまじゃア所変えして大|繁昌《はんじょう》だ。馬道三丁目入口の角で、錦袋円《きんたいえん》と廿軒茶屋の間だなあ。おぼえときねえ」
 なんかと頼まれもしない浅草もちの広告《ひろめ》に力こぶをいれて、一人|弁舌《べんぜつ》をふるっていると、
「親方ア、馬はどうだね、安くやんべえよ」と、またしても馬子の声。
 与吉は大いに業《ごう》を煮やし
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