ちあがった。お艶はそれをキッと下からにらみあげて、
「あなたッ!」
「なんだ、うるさい!」
「どうせうるそうございましょうよ!――いっしょになる時はなんだかんだとチヤホヤなさって、うるさいは恐れ入りましたね。ちっと旗色が悪くなると、いつでもどっかへお出ましだ。そんな卑怯な真似をなさらないで、お武士ならおさむらいらしくはっきり[#「はっきり」に傍点]と話をつけてくださいッ!――どこへお出かけでございます?……存じております! 戌亥《いぬい》の方。麹町でございましょう? えええ、あのお嬢さんはあなたにとってお主筋《しゅうすじ》に当たる方、それにお生れがお生れですから女芸万般《にょげいばんぱん》ねえ、何ひとつおできにならないということはなし、そりゃアあたしとは雪と墨、月とすっぽん[#「すっぽん」に傍点]ほども違いましょうともさ。せいぜいお大事になすっておあげなさいましよ」
栄三郎は聞かぬ態《てい》――ゆがんだ微笑をうかべて、まわしまわし帯を結びなおしている。
その、擦り切れた帯の端が、畳をなでてお艶の前にすべってくると、彼女は膝をあげてしっかとおさえた。
「サ! きっぱり話をつけてくださいッてば! 二つにひとつ、乾雲丸かあたしか、あなたはどちらを……」
「お艶!」栄三郎の眼は悲しかった。「――な、聞き分けのよい女だ。わたしはちょっとこれからホラ! これの才覚にとびまわってくる。鳥目《ちょうもく》だ。ははははは、そんなにおれを苦しめずに、おとなしく留守をしてくれ。な、わかったな」
「嫌でございますッ! 御冗談もいいかげんになさいまし。あたしもこれで当り矢のお艶と言われた女。あなたばかりが男じゃござんせんからね」
栄三郎の眼が細まって、異様な光を添えた。
「お艶ッ! き、貴様ッ……坐れ、そこへ!」
「すわってるじゃございませんか。あなたこそお坐りなすったらいかがです」
「よく一々口を返すやつだな。貴様、このごろどうかいたしおるな。何か心中に思うところあって、それでさように事につけ物に触《ふ》れ、拙者に楯《たて》を突くのであろう。どうだ?――いや、得てはした[#「はした」に傍点]ない言葉から醜《みにく》いあらそいを生ずる。いいかげんにしなさい」
「まあ、虫のいい! いいかげんにはできませんよ」
「お前はすっかり人間が変わったな」
「変わりたくもなろうじゃございませんか。こんな貧乏《びんぼう》暮しをしているんですもの」
「ふたことめには貧乏貧乏と申す……それほど貧乏がいやか」
「癇《かん》のせいか、あんまりゾッといたしませんねえ。そりゃそうと、どうおっしゃるのですか……乾雲丸か、このあたしか」
「黙れッ! おのれお艶、痩せても枯れても武士の妻ともあろう者が、正邪《せいじゃ》の別、恩愛《おんあい》義理《ぎり》をもわきまえず、言わせておけば際限もなく、よッくノメノメとさようなことがいえるな。貴様は魔に魅入《みい》られておるのだから、拙者も真面目には相手にせぬ。ひとり胸に手を置いて考えてみるがよい」
「またお談義《だんぎ》! 何かというと武士、刀の手前――どうも当り矢のお艶も、おかげさまでこんなかたッくるしい言葉をおぼえましたけれど、あたしはそんなえらそうなことを言って、自分達は食べるか食べないで、たかがお刀一本に眼色顔いろを変えて、明けても暮れても駈けずりまわっているお人よりも、町人でもお百姓でもようござんすから、あたしひとりを大事にしてくださる方に、しっくりかわいがってもらいたい……ただそれだけでございます」
「ううむ、見損《みそこな》ったかな――」
「ほほほ、そりゃアお互いさま」
「で、いかがいたせというのだ?」
「まず乾雲丸のことをフッツリお忘れなすって、それからその厳《いか》つい大小をさらり[#「さらり」に傍点]と捨てて、あたまも小粋に取りあげてさっぱり[#「さっぱり」に傍点]した縞物か何かでおもしろおかしく……」
「ぶるる、馬鹿ッ! 何を申す! 貴様、そ、それが本心かッ?」
「ほんしんでございますとも。あたしだってちったあ眼先が見えますよ。あなたは、あの弥生さまとごいっしょにおなりなさりたくても、お刀がなければ押しかけ婿にもいかれないので、あれ[#「あれ」に傍点]がお手にはいるまで、あたしってものをこうしてだし[#「だし」に傍点]に使っていて、刀を取るが早いか、あたしを棄ててその刀を引出物《ひきでもの》に弥生さまのところへ納まろうというんでございましょう? そんなこと、こちらは先刻《せんこく》御承知でございますよ。ほほほ」
「お艶!――キ、貴様、気がふれたナ! 夜泣きの刀の分離も、もとはと言えば拙者から起こったこと。されば丹下左膳より乾雲丸を奪還し、この坤竜とともどもに小野塚家の当主《とうしゅ》弥生殿の前にそろえて出すのは、弥
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