乾雲がバリバリッ! と音をたてて、障子の桟《さん》を斬り破ったと見るや、長光を宙になびかせて左膳の頭上に突進した。
が、さいたのは敷蒲団と畳の一部。
その瞬間に、いながらにして跳ね返った左膳は、煙草盆《たばこぼん》を蹴倒しながら後ろの壁にすり立って濛々《もうもう》たる灰神楽《はいかぐら》のなかに左腕の乾雲を振りかぶった左膳の姿が生き不動のように見えた。
「野郎《やろう》ッ! さあ、その細首をすっ飛ばしてくれるぞッ!」
大喝《たいかつ》した左膳の言葉は剣裡《けんり》に消えた。息をもつがせず肉迫した栄三郎が、足の踏みきりもあざやかに跳舞して上下左右にヒタヒタッ! とつけ入ってくるからだ。剣に死んでこそ剣に生きる。もう生死を超脱《ちょうだつ》している栄三郎にとっては、左膳も、左膳の剣も、ふだん道場に竹刀をとりあう稽古台《けいこだい》の朋輩《ほうばい》と変わりなかった。身を捨てて浮かぶ瀬を求めようと、防禦の構えはあけっぱなしに、まるで薪でも割ろうとする人のようにスタスタと寄って来てはサッ! と打ちこむ。法を無視しておのずから法にかなった凄い太刀風であった。
これが、平素から弄剣《ろうけん》に堕す気味のある左膳の胆心《たんしん》を、いささか寒からしめたとみえて、さすがの左膳、いまはすこしく受身の形で、ひたすら庭へとびおりて源十郎と勢いの合する機を狙うもののごとく、しきりに雨の吹きこむ戸ぐちをうかがつているが、早くもこれを察知した栄三郎が、はげしく刃をあわせながらも、体をもって戸外の道をふさぐことだけは忘れずにいるから、左膳思わず焦《いら》立ち逆上《あが》った。
「コ、コイッ! うるせえ真似《まね》をしやあがる!」とにわかに攻勢に出てその時|諸手《もろて》がけに突いてきた栄三郎をツイとはずすが早いか、乾雲丸の皎閃《こうせん》、刹那に虹をえがいて栄三郎のうえへくだった。
はじきとめた武蔵太郎が、鉄と鉄のきしみを伝えて、柄の栄三郎の手がかすかにしびれる。とたんに一歩さがった彼は、不覚《ふかく》にも敷居ぎわの死体につまずいて仰向《あおむ》けに倒れた。
と見た左膳、腸をつく鋭い気合いとともにすかさず追いすがって二の太刀を……。
闇黒ながらに相手が見えるふたり。
火花を散らす剣気が心眼に映じて昼のようだ。
斬りさげる左膳。
はねあげる栄三郎。
あいだに! ウワアッと! 喚発《かんぱつ》した悲叫は、左膳か、それとも栄三郎か?
本所鈴川の化物屋敷が刀影下に没して、冷雨のなかを白刃|相搏《あいう》つ血戦の場と化しさったころ。
ここ瓦町の露地《ろじ》の奥、諏訪栄三郎の留守宅にも、それにおとらない、凄じいひとつの争闘が開始されていた。
男子のたたかいは剣と腕《かいな》。
だが、女子のあらそいに用いられる武器は、ゆがんだ微笑と光る涙と、針を包んだことば……そうして、火の河のようにその底を流れる二つの激しい感情とであった。
たがいの呪い、憎みあう二匹の白蛇。
それが今、茶の間……といってもその一室きりない栄三郎の侘住居《わびずまい》に、欠け摺鉢《すりばち》に灰を入れた火鉢をへだてて向かいあっているのだ。
お艶《つや》と弥生《やよい》。
だまったまま眼を見合って、さきにその眼を伏せたほうが負けに決まっているかのように双方ゆずろうともしない――視線合戦《しせんがっせん》。
が、さすがにお艶は、水茶屋をあつかってきただけに弥生よりは世《よ》慣れていた。お艶は、さっきから何度もしているように、丁寧《ていねい》に頭をさげると、ほどよく微笑をほころばせながら、それでも充分の棘《とげ》を含んで同じ言葉をくり返した。「あの、それでは、あなたさまが弥生様でいらっしゃいますか。おはつにお目にかかります。お噂《うわさ》はしじゅう良人《たく》から伺っておりますが……わたくしは栄三郎の妻のお艶《つや》と申すふつつか者でございます。どうぞよろしく……ほほほほ、主人はちょっとただいまお風呂《ふろ》へ参りまして、でも、もうお湯をおとした時分でございますから、おッつけ帰るだろうとは存じますが、どこかへまわりましたのかも知れませんでございますよ。まあ、ごゆっくり遊ばして」
と、栄三郎の妻という句に力を入れて、これだけいうのがお艶には一生懸命だった。茶屋女上がりと馬鹿にされまい。まともな挨拶もできないとあっては、じぶんよりも栄三郎様のお顔にかかわる。こう引き締まったお艶のこころに、まあなんといっても、いま栄三郎の心身をひとりじめにしているのはこのわたしだという勝ちほこった気が手伝って、お艶にこれだけスラスラと初対面の口上《こうじょう》を言わせたのだったが、そのあとで、
「良人がいろいろと御厄介になりましたそうで……」
と口にしかけたお艶は、突如、いい知れ
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