れつ》するか知れない危険なものが沈んでいた。
「なあ源的、おれと貴公との仲はきのうきょうの交際ではないはずだ。したがって、いかにおれが一身一命を賭して坤竜丸を狙っておるか貴公、とうから百も承知ではないか、しかるにだ――」
 言いながら土間におりた左膳は、みるみる顔いろを変えて、
「しかるに!」
 と一段調子をはりあげた時は、もう自分とじぶんの激情を没して、一剣魔丹下左膳本然の鬼相をあらわしていた。
「おれに助力して坤竜を奪うと誓約しておきながら、なんだッ! 小婦の姿容《しよう》に迷って友を売るとは? やい源十ッ、見さげはてたやつだなてめえはッ!」
 咬《か》みつくようにどなるにつれて左手の乾雲がカタカタカタと鍔《つば》をふるわす。
 風、地に落ちてはちきれそうな沈黙《しずまり》。
 土生仙之助、お藤、与吉ほか二、三の者は、端《はし》近く顔を並べて、戸口の敷居をまたいだままの源十郎と、それに一間のあいだをおいて真向い立っている左膳とを呼吸《いき》もつかず見くらべているのだった。
 ふところ手の源十郎、一桁《ひとけた》うえをいってくすりと笑った。
「丹下!」と低声。「貴様も、そう容易にいきりたつところを見ると、案外子供だなあ! おれは何も貴様のじゃまをしようと思って企《たく》らんだのではないのだ――」
「やかましいッ! だ、黙って、おれに斬らせてくれ貴様を!」
 左膳、だしぬけに眼を細くしてうっとりとなった。怪刀の柄ざわりが、ぐんぐん胸をつきあげてきて、理非|曲直《きょくちょく》は第二に、いまは生き血の香さえかげばいい丹下左膳、右頬の剣創《けんそう》をひきゆがめて白い唇が蛇鱗《だりん》のようにわななく……。
 所を異《こと》にする夜泣きの刀の妄念《もうねん》、焔と化してめらめらとかれの裾から燃えあがると見えた。
 生躍《せいやく》する人肉を刃に断《た》つ!
 毒酒のごときその陶酔が、白昼のまぼろしとなって左膳の五感をしびれさせつつあるのだ。
「き、斬らせてくれ! なあ源公、よう! 斬らせてくれよう、あはははは」
 左膳は、しなだれかかるように二、三歩まえへよろめいた。愕然《がくぜん》! として飛びのいた源十郎。
「わからないやつだな――なるほど、おれはあの晩お艶をひっかついで一足さきに帰った。そりゃあ貴公らと行動をともにしなかったのは、重々おれが悪い。その点はあやまる。な、このとおり、幾重にも詫びる……しかしだなあ丹下、お藤が舟へとびこんで、そのお藤をお艶と見誤って敵が即座に舟へ移って逃げたところで、そ、それはおれの知ったことではないぞ」
 すると、聞いていたお藤が、
「まだあんなことをいってる! 殿様、あなたもずいぶん往生《おうじょう》ぎわが悪いねえ、みんなお前さんのあたまから出たことじゃないか」
 いい出すのを与吉がおさえた。
「姐御! ね、もうようがしょう、殿様も折れてらっしゃる――」
「それ見ろ!」左膳は、勝ち誇った眼をお藤から源十郎へ返して、
「貴様の火事泥《かじどろ》さえなけりゃあ俺はあの夜坤竜を手に入れて、これ、この」と左剣を振り鳴らしながら、
「この刀といっしょにしてやることができたのだ――鈴川、貴様に裏切られようとは思わなかったぞ」
「貴公も執念《しゅうねん》ぶかい男だな。なんにしても過ぎたこと。宜《よ》いではないかもう……」
「そっちはよかろうが、こっちはいっこうよくねえ。おれの執念ではない。刀の執念だ。こ、この乾雲の執念なのだッ!」
「フフン!」源十郎はせせら笑った。「おもしろいな。それで何か、毎夜辻斬りにお出ましになるてえわけか」
 すぱりと吐いた。
 と!
「ぶッ!」面色蒼白の度をました左膳、たちまちぽうっとふしぎな紅潮《あからみ》を呈して、「どうして知っとった?」
「や! とうとう口を割ったな。なに、おおかたそんなところと、ちょっとかまを掛けたんだが、なあ丹下、江戸中の不浄役人がかぎまわっている今評判の逆|袈裟《けさ》がけの闇斬り……南町の奉行は、たしか大岡越前とかいう名判官だったけなあ! 恐れながら――とひとことおれが駈けこめば! どうだ! あとは自分で考えてみろッ!」
「ううむ! その前に汝《うぬ》をぶった斬るんだ」
「おれは事は好まん」
「き、斬れるぞ源十! け、乾雲が、斬れきれと泣いておる。この声が貴様に聞こえんか」
「事は好まん……が、やむを得ん!」
 源十郎、土気色《つちけいろ》の微笑を突如与吉へふり向けた。
「座敷からおれの刀を持ってこい!」
 芝生――とは名ばかりの、久しく鎌《かま》を知らない中庭の雑草に腰をおろした左膳、手ぢかの道しばの葉を一本抜きとって、
「これ、見ろ、こいつにこんなにくれ[#「くれ」に傍点]が来ている。してみると、二百十日から二十日までのあいだに一つ大暴風雨がくるか
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