、いまだ孫六のやすりに手が届いて別書を発見したものはなく、従って水火合符|刀潜《とうせん》の儀、夢にも知れずにすぎて来たのである。
それでも、うすうすながら関の開祖孫六に、水あげ火あげの独自の両秘術があったらしいことだけは、ふるい昔の語りぐさのように、美濃国にいる刀鍛冶のあいだにいいつたえられてきたけれど、誰も、孫六の専用した古式の鑢《やすり》を使いこなす域にまで到達したものがなかったために、やすりの箱は埃をかぶったまま長く開かれずついに彼の死後こんにちにいたるまで、水火の奥ゆるしが割符《わりふ》となって夜泣きの大小の中心《なかご》に巻き納めてあるということを認めた、やすり箱の中の孫六の別札真筆《べっさつしんぴつ》も、とうとう見出される機とてもなく、古今の貴法《きほう》のうえに、春秋いたずらに流れ去ってきたのだったが!
さては、あったら名人のこころづかいも空《くう》に帰して、水火秘文の合符《がっぷ》、むなしく刀柄|裏《り》に朽ち果てる……のか。
と、見えたとき。
半生を鍛剣のわざに精進して、技《ぎ》熟達《じゅくたつ》、とうとう孫六遺愛の鑢《やすり》を手がけようとして箱をひらいたのが関《せき》正統《せいとう》の得印家に生まれて、何世かの兼光を名乗る、この子恋の森陰一軒家のあるじ、火事装束五梃駕籠の首領の老士であった。
この得印兼光は、じつに孫六の末胤《まついん》だったのである。
――と、ここにはじめて素姓をあかし、名乗りをあげた得印老人のまえに、闇黒の部屋に坐して弥生は思わず襟をただしたのだった。
「何ごとにまれ、芸道の苦心は尊いものと聞きおよびまする。夜泣きの刀が、さような大切な文を宿しそのように因縁《いんねん》につながっておろうとは、父もわたくしも、いや、小野塚家代々のものがすこしも存じ寄りませぬところでござりましたろう。いかさま、雲と竜のふたつの刀、それでは切っても切れぬはずにござりまする。よくわかりました。それではわたくしも、微小ながら今後いっそう力をつくして、かの二剣をひとつに、必ず近くお手もとへお返し申すでござりましょう」
「いや! いや!」
滅相もない! といったふうに兼光はあわてて手でも振り立てたものらしい。暗い空気が揺れうごいて、弥生の顔をあおった。
「いや! たとえわたしの先祖が鍛《う》ったところで、いまは、刀はあくまでも小野塚家の
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